よろずの鬼とたたりの神

5,翠玉

「旦那、まずいですよぉ」
 声を限りなく小さくして、犬神の着物を引っ張る。二人は高駒屋のただ中にいた。それぞれの部屋の中からまぐわう男女の艶事の声が聞こえてくる。犬神のくれた飾りのおかげで酔わずにいられるが、聞いているだけで心臓に悪い。
 獣の姿に変化した犬神が天を駆け、屋根伝いにここまで来て窓から入り込んだ。風のように早く走る影、夜の闇の中で目にしたとして、次の瞬間には消えている。錯覚としか思えなかっただろう。部屋の場所がわからないと、よろず屋は首根っこを噛まれて連れてこられた。太夫に会いに忍び込んだなんて、下手すりゃ死刑の重罪だ。
「まずいのであれば早く部屋に案内しろ。見つかるぞ」
 やっぱり旦那は酷いお方だ。半泣きになりながら、翠玉太夫の部屋に忍び込む。こちらです、と部屋に入って振り返ると犬神の姿がない。
 肩をポンと叩かれて飛び上がる。
「無礼な奴だね。金も払わずに私の部屋に忍び込んで許されると思っているの?」
 翠玉太夫だった。こんな時間なのにまだ、昼時あった格好のままだ。客を取ろうとしないというのはどうやら本当らしい。
 部屋に忍び込んできた相手がよろず屋だとわかると、目を丸くした。
「よろず屋? あんたこんなとこで何してんの。早く帰んなさい」
「お前の部屋がわからぬゆえ、案内を頼んだ。邪魔をするぞ」
 追い返そうとよろず屋の背を押す翠玉の背後に、いつのまに忍び寄ったのかゆらりと犬神が立つ。翠玉太夫は鬼の動作で、飛び退いた。
「なんだいあんた」
 暗がりゆえに目立たぬが、姿勢を低くし床についた手の爪や足袋を破いて足の爪が鋭く伸びている。下手な刃物よりよく切れる、翠玉太夫の武器だった。
「昼間の金持ちじゃないか。金をもってりゃ何でもしていいと思ってんのかね。よろず屋まで巻き込んで」
 思わず飛び出してしまった爪牙を、着物の袖に隠す。
「粋な女は金では買えぬ。俺もそこまで傲慢ではない」
 言いながら犬神はよろず屋の帯をつかんで持ち上げ、後ろに庇った。子犬のようにひょいと運ばれ、降ろされて床に転がる。
「なら何しに来たんだい。よろず屋に免じて今は人は呼ばないで居てやるけどね、用がないならとっとと失せな」
「用はあるとも。たった一つのことに答えてくれれば良い」
 冗談めかして喋っていた犬神は、そこで剣呑な顔をして翠玉太夫を睨みつけた。
「おぬし、吉次郎を殺したな」
 肌寒く思えるほどの殺気が、部屋に満ちた。
「だ、旦那、何言ってんです」
 部屋に押し入った上に、出し抜けにそんなことを言われたら怒るに決まっている。目の前にあった犬神の足に縋って、止める。
「なぁんだ、そのこと」
 居直った風に太夫がいう。犬神が小さくため息を吐き、よろず屋は信じられずに美しい女の鬼をみた。
 そんなはずはない。あるわけがない。
「太夫、嘘ですよね」
 いつもの悪い冗談に決まっている。何を本気にしているのと、笑いかけてくれることを期待した。しかし彼女はよろず屋の方にちらりとも目を向けない。犬神を油断なく睨みつけている。
「あの男が悪いんだ」
 ふんと鼻を鳴らした。
「足抜けしようなんて誘ってきた晩だよ。私の正体に気がついたのさ。怯えて逃げ出そうとしたから殺した。妖だってことが他に知られて、追ん出されたらおしまいだ。それに私は廓を出ちゃ生きていけない。ここを出る気なんてなかったのに、惚れたの腫れたの本気にして馬鹿な男だ」
 仕方がなかったんだよ、と悪びれもせずに笑う。
「この答えで満足したんなら、私も聞かせてもらいたいわ。あんた何者? 鬼であることはよろず屋を脅しでもして喋らせたんだろうけど、どこでバレたんだか」
「そんなことが気になるか」
「気になるさ。次はもっとうまくやらなくちゃだもの。金持ち二人を町から消すのは人の興味を引きすぎるものね」
 もはや隠す必要はないと、翠玉太夫が鬼の本性を現した。目が黒く滲み、瞳孔が金色に光る。額の角は奇しくも店から授かった翠玉の名と同じ翡翠が如き緑色。
「ここに来るまでは吉次郎を知らぬかと訊ねるだけのつもりだった。だがこの部屋には濃い血脂と臓物の臭気が染み付いておった。人一人殺さねば残らぬ酷い悪臭だ」
「臭い? 犬みたいなこと言うね。そんならあんたを食った後は、香でも焚きしめておくことにするよ。よろず、死にたくないならその男の側につくのはやめな」
「太夫、駄目です。この人は」
 犬神の腕が言葉を遮る。唇の前に指を立て、左右に首を振った。言ってはならない。大人しく見ていろと有無を言わさぬ面差しが語る。
 太夫が瘴気を吐き出した。人ならば一吸いで肺が腐り、血反吐に塗れる猛毒だ。鬼とてただでは済まない。よろず屋は慌てて衝立の裏に逃げ込んで、頭を丸めて小さくなった。
 犬神は身構えもせず無防備にそれを受けるとみえたが、鬱陶しそうに手を振った。体を包み込む直前だった黒い霧が一片残さず搔き消える。
「あんた、術師の類かい」
 翠玉が眉をひそめて、今度は自らの手足で飛びかかる。犬神が爪をかいくぐって手首を掴み、鳩尾を蹴る。鬼であるのに女の細い体であるのと変わらぬように衝撃で宙に浮き、元のところまで跳ね飛ばされる。調度を引き倒し、悔しそうに睨みあげた。
「欲を食む程度であれば見逃してやったが、人を食う鬼を許すわけはいかぬ」
「許しなんて必要ない。私は強い。そこの鬼なんかとは違うんだ」
「ふ、二人ともやめてくだせぇ」
 一体なんで、こんなことになってしまったんだ。
 翠玉太夫は強い鬼だ。上等な欲を食って育てた美しい翡翠の角。人を食う必要なんてなかったはずだ。
 欲鬼に廓の暮らしは都合が良い。持って生まれた美貌を武器に、座敷にいるだけでいくらでも上等な餌を食えた。男を入れ込ませすぎないようにするやり方だって心得ていて、それが長くやっていく秘訣だと言っていた。愛は乞うても恨みは買わぬ。重すぎる愛は恨みに化ける。だからほどほどにしとくのさと自慢げに語っていた。
 犬神の正体を知らずとも、一度組み合えば力の差はわかったはずだ。瘴気をかき消すなんて人であっても並みの術者ではない。戦いを挑むなんて、無鉄砲すぎる。
 そもそも欲鬼は人にそわねば生きられない、そんなに強い種の妖ではないのだ。
 何もかも太夫らしくない。なんでどうしてと疑問ばかりが頭の中をぐるぐる回る。昼間に言葉を交わしいつもの通りに笑っていた、太夫の顔が目に浮かぶ。
 いや、あのときから、太夫はいつも通りなんかじゃなかった。
 不意によろず屋の角に、疑問の答えが降ってきた。
「翠玉太夫は吉次郎さんを、ほんとの本当に好いていたんですね」
 そのまま、口をついていた。
 戦う二人ががぴたと動きを止めた。
 人を殺してなんとも思わず、悪いとも感じてないお方が、角を折りたいなんていうわけがない。翠玉太夫の緑色に美しく光る角は今まで食った欲の証。彼女を求めた男たちの愛が幾重にも重なってできている。それを丸ごと捨ててしまいたい、自分が愛されていたことを、丸ごと消してしまいたいと願った。角を折られる痛みを受けたいなんて望む心は一つに決まっている。
 答えはずっとこの部屋に満ちていた。〝死んじまいたい〟という太夫の欲が、ようやくよろず屋にはみえた。
「よろず、どういうことだ」
「どうもしないよ。あんたに何がわかるってんだ」
 言葉を遮るように翠玉が叫ぶ。彼女の目が初めてよろず屋をちゃんと見た。
 恐ろしいけれど、よろず屋は言葉を止めなかった。それがわかるのがよろず屋だけで、言わねば二人が殺し合うのを止められないのならば、言う。弱い鬼でもそのくらいはできるんだ。
「太夫は本気で、吉次郎さんのこと好いていなすった。だから、足抜けを考えて、そんで鬼であることも受け入れてもらいたかったんだ。自ら正体を明かしたんでしょ。旦那でさえ知らずにいて、閨の中でさえ見破られなかったんだから、ただの人が感づくわけありませんや。太夫は強い鬼でいらっしゃる」
「うるさいよ」
 強がる太夫の目に、みるみるうちに涙が溜まった。
「拒まれたのか」
 静かな声で問うた犬神からは、もう殺気は放たれていない。
「そうするしかなかったんだ」
 叫んだ声は、涙を堪えて悲痛に揺れた。
 心底惚れ込み、信じた男に拒まれた。悲しみの原因を引き裂くことでしか、砕けてしまいそうな心をどうにもできなかった。
「全部、ぜぇんぶ私のせいさ。余計な欲をかかなけりゃ、あの人は今日だってここで私と一緒にいてくれた。知って欲しいなんて思わなかったら、あの人を切り裂くこともなかったんだ。私が殺しちまったんだ」
 太夫は顔を覆い、床に伏して泣き出した。吉次郎さんと何度も名を呼ぶ。しかしその愛しい男は、他ならぬ彼女自身の爪が裂いて、二度と戻っては来ないのだ。
「おぬしの罪は俺には裁けぬ。しかし許すこともできんのだ。ここを出ていけ」
 傍に膝をついて、そっと肩に手を置いた。
「嫌だ。嫌だよ。どこかもわからぬ場所で生きていくくらいなら、ここで死ぬ。私の場所はここだけだもの。ここが私の故郷だった。どこかへ逃げ延びて、あの人を殺しちまった罪すらなかったことにされるくらいなら、人殺しとして裁かれたい」
 嫌だ嫌だと子供のように頭をふる。
「そうか」
 犬神は静かな声で呟いた。
「どうするんです?」
 見逃してあげてくださいと、祈りを込めて裾を引っ張る。その顔を見つめ返し、黙って首を左右に振った。
「鬼が起こした事件、人の法で裁くことはできん」
 よしんば裁かせたとて、そのときは鬼が人に紛れて暮らしていることも露見する。
「ならここで私も死なせておくれよ。あの人が死んだ場所で、私も死ぬんだ」
 翠玉太夫としての私はここであの人と心中したんだと泣きじゃくりながら、畳を撫でる。おそらくそこが吉次郎の骸があった場所なのだろう。愛しい男と結ばれず死に別れた彼女は、もはやそんなところにしか吉次郎との縁を見つけられない。
「本当に良いのだな」
「欲鬼が欲をかいたら身を滅ぼす。自業自得だ、構いやしないよ」
 欲鬼としての私は一片残さず消し去ってくれと、自嘲しながら言う。
 身の回りの整理をしておけという言葉に首を振る。
「私には、端からこの身一つ以外は何にもないのよ」
 覚悟を決めた太夫の顔は凛として、もう涙を零してはいなかった。美しく誇り高い、芯の通った太夫の威風そのものだった。
「翠玉太夫」
 望みを叶えるとは、死ぬと言うことだ。本当に太夫はそれでいいのか。
 なんと言えば、彼女を止められるのだろう。駆ける言葉が見つからない。彼女の心を覗いたけれど、よろず屋にできるのはそれだけだった。
 同じ欲鬼。しかし欲鬼であるということしか共通するところがない。燃えるような恋を、よろず屋はまだ知らない。それを失う苦しみだって、わかりはしない。
「俺の国と民を愛してくれてありがとうな」
 犬神は彼女を見つめ、微笑んだ。
「俺の国って、まさかあんた」
 驚いて顔を上げた目の前で、輪郭が溶け姿を変える。刃の色をした毛色、見上げるほどの体躯に琥珀色の瞳を輝かせた狼。
 驚き、そしてどこかホッとした顔で彼女はその変化を見つめた。
「よろず」
 翠玉太夫がよろず屋を呼んだ。
「あんたは幸せになんなさいよ」
 泣きそうな顔で笑い、そして消えた。
◆◇◆
 帰りの道、二人は言葉もなく歩いていた。酷く寒い。翠玉の心を飲んでしまって、体が凍りつきそうだ。
「時を掛ければ分かり合えたのだ、あの二人も」
 犬神がぽつりと呟いた。
「わかりゃしませんよ。人の心なんて」
「そうかもしれん」
 犬神の言う未来もあったかもしれない。でもそれも、もしもの話。
 どんなに時間をかけたって、二人の溝は埋まらなかったかもしれない。人は鬼が恐ろしい。鬼が人を恐れて姿を隠さなければ、生きていけないのと同じくらいに、人は鬼が怖いのだ。
 翠玉太夫は吉次郎さんと結ばれたいなんて、願っちゃならなかった。
 足抜けなんて考えるべきじゃなかったし、正体をわかってもらおうとするべきじゃなかった。
 だが彼女の目の前には、愛しい男が全てを受け止め愛してくれるという、ひたすらに無邪気で儚い夢が見えていた。希望を打ち砕かれて押しつぶされた心は、悲しみを消し去ることしかできなかった。鬼らしい、本能的で野蛮なやり方で、排除した。
 ただ下を向いて地面を辿るよろず屋の歩みの先に、足を止め振り向く犬神が居る。
「よろず、礼を言う。俺では、彼女の心を汲んでやれなんだ」
 犬神がよろず屋に頭を下げた。
 唇を噛んだ。どんな気持ちで返事をすれば良いのか、わからなかった。
「翠玉太夫は、それは強い鬼でした。人に混じらないと餌を食えないのに、人に混じりきれない化け損ないのあたしとは違って」
 強い鬼のほとんどは、下級の鬼を見下している。餌としか思っておらず、育んだ角をかじりとり、戯れに爪牙にかけて食い散らかす。
 翠玉太夫には散々からかわれて虐められたけれど、残酷な鬼とは違っていた。座敷に呼びつけてくれるから、酔うほどの濃い欲は無理でも、残り香を食むことだってできた。商売の相手になってくださったし、時々は甘いお菓子など分けてくださった。
 あの人のことが、嫌いじゃなかった。
「すまなかった」
「旦那が謝ることないじゃないですか」
 人の心から生じた欲を食っていてなお、鬼には人の心がわからない。それでも鬼の心はわかるのだ。
 鬼が人と添いたいなんて願ってはいけない。翠玉太夫が言った通りだ。欲鬼は自分の欲で身を滅ぼす。欲を餌とし欲をかいたら死ぬ生き物だ。
 鬼と神だって、あまりに住む世が違いすぎる。
 前を歩く犬神の背中はあまりに遠かった。

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