汚泥の底はとかく眩しい


HOTEL NODENS_紫煙に嘯くコヨーテ
 その仕事の依頼主はカレルヴォ・スタルッカ。市議会議員選への出馬を控えた市の有力者というやつだった。表社会の人間だが裏のこともよく心得ていて、スラムに根を張るマフィア連中からの支持が厚い。
 表社会での権力闘争に勝利するために得た裏社会の支持基盤は、スタルッカを少々複雑な状況に置いている。即ちスラムでのマフィアたちの勢力図の変化により、身の安全が脅かされるのだ。
 クロックワークキッチンに持ちこまれた仕事は、彼の身辺警護だった。
 招かれた依頼人の屋敷は富裕層エリアの中でも特に豪勢な、庭付きの邸宅だった。だが美しい庭や建物は、有刺鉄線と防犯カメラを取り付けた高い塀で隠されている。ゲートの周辺を固める黒服の男たちは警備員なのだろうが、佇まいも装備も堅気には見えなかった。
 入念なボディチェックの後、広い前庭を歩いて玄関に辿りつき応接室に通されるまでの間、銃を携帯した夥しい数の黒服を見かけた。
 部屋にいるのはソファに座るスタルッカと、二人の護衛のみ。多数の黒服の突き刺すような視線から解放されて、ようやく落ち着いて息をすることができた。
 尤もクロックワークキッチンの三人のうち二人は、たとえ居心地の悪さというのを感じていたとして、面に出してくるようなタイプではない。したがって、席について安堵の息をついたのはジンジャーただ一人だった。だが、このメンバーの中で依頼人とやりとりができるのもジンジャーただ一人であり、どんなに緊張していようと口火を切る役は彼だった。
「ええと、随分物々しい警備ですね」
 受けると決めた依頼ではあるが、この上で自分たちの力が必要なのか。図らずもそんなニュアンスが声には滲み出た。
「ああ、支持者の方々のご厚意で」
 表社会で権力争いをするだけでなく、裏社会の闘争にも巻きこまれる羽目になったスタルッカが苦笑いをした。あの連中はやはり真っ当な警備会社からではなく、それぞれのマフィアから派遣されてきた手勢なのだ。
 それはまさに彼の支持基盤の縮図で、黒服の人数比を見るとそれぞれの組織がどれくらい彼に金を払っているか分かる。断れないそれらのご厚意たちは、元々が別の組織から派遣されてきた連中であるだけに折り合いが悪く、微妙な力関係をスタルッカの周辺に描きだしていた。
「どこに裏切り者が潜んでいるかわからなくてね。完全に中立の存在から派遣されてきた私兵が必要になったんですよ。というより、そうでなければ連中が納得しなかった。自分の手駒を一番近い場所に置かせたがる」
 スタルッカは苦笑いをして煙草を咥える。脇に控えていた護衛が慣れた動作で火をつけた。
 紫煙が市販品と違う匂いを漂わせた。
 鼻先に煙が漂ってきたときに感じた感覚を、口にするのを躊躇った。上等な葉だと断じるほど己の感覚に自信がない。そもそも安煙草に慣れきった鼻に、煙草の葉のブレンドを嗅ぎとれるほどの繊細さがあるだろうか。だが、それはノーデンスの喫煙所であまりにも嗅ぎ慣れた香り。
「あ、あの」
「はい?」
 仕事の話に入ろうとしていたスタルッカが、首を傾げる。
「お話を遮ってすみません、もしかすると勘違いかもしれないのですが、いや勘違いの可能性の方が高くてそんなことで話を遮るな、と思われるかもしれないのですが」
「構いませんよ」
 足を組み直す。人の上に立つものらしい度量の広さで、続きを促す。吐き出した紫煙はやはり覚えがある、ような気がする。
「もしかすると、松永さん、ですか?」
「は?」
 スタルッカだった男はその瞬間、完全に彼本来の声で返事をしていた。
 苦々しい顔をして、〝変装〟の異能を解く。
 体格はおおよそ同じだが、東洋人らしい薄い体つきの分だけ、シャツにゆとりができる。そのせいで、少し小柄に見えた。
 首の刺青と煙草を吸う所作の柄の悪さで、護衛替わりのマフィアたちとようやく釣り合いが取れている。
「なんで僕だとわかったんです」
 普段ならば異能を解除した後はからかうように人の反応を窺う松永の声は、冷たく強張っていた。と、確信はないがそう感じた。
「ま、いいや。説明の手間が省けましたね。僕がスタルッカ氏の影武者役。みなさんと一緒にお仕事させていただきます」
 再び喋り出した松永の声色に冷たさや硬さの気配はなく、やはりさっきは様子がおかしかったという印象だけが残った。ワイズマン兄弟の仕掛けた目印に気づいただけとはいえ、異能を見破ってしまったことがプライドを傷つけたのだろうか。
 仕事の話が進む中で、そんな個人的な印象を口にする場面はなく、松永 帰泉は普段通りの軽薄な口調で言葉を紡ぐ。
 精巧な影武者を用意してあるというのを、スタルッカは隠していない。その事実が刺客に対する牽制になるからだ。人前に立つような場面では襲撃が予測されるので、概ね松永が彼に〝変装〟して対応していた。
「今回もそうですね。スタルッカ氏から指示を聞いてあなた方にお伝えに来ました」
 だが一週間後に行われる資金集めのパーティーだけは、影武者で対応するわけにはいかない。スタルッカが直接支持者たちとあって話すべき場面だ。
 会場には不特定多数の人間が集う。護衛の中に、会場スタッフに、招待客に、刺客を紛れこませる隙はいくらでもある。ボディチェックを徹底して会場の出入りを制限しても、限界がある。
 近頃スタルッカの命を狙っている連中が、必ず仕掛けてくるだろうと予想された。
 クロックワークキッチンの仕事はパーティーの最中に襲撃があった場合に、松永と協力してスタルッカを逃すこと。身の回りの異変にいち早く察知できるよう周辺人物の把握も兼ねて、一週間前から身辺警護の役目に入る。
「ブリュレさんは運転手として外出する方に付くとして、お二人は僕とスタルッカ氏のどちらが本物かわからないように分かれて警護にあたってもらいたいんです。構いませんか?」
 構うも構わないも、それが今回の雇い主の意向なのだ。否を唱える理由がない。
「それは良かった」
 こちらの返答を伝えると、松永は奇妙な微笑みを浮かべた。
「では明日から、よろしくお願いします。まずはジンジャーさんが本物に付いてください。当日のスケジュールは別の人間がお伝えします」
 松永はスタルッカの姿に戻ると、部屋を辞す。故意なのか偶然なのか、部屋に入ってから出て行くまでの間、一度もサラミやブリュレには視線を向けなかった。
 以前から、彼の態度はそんな風だっただろうか。それとも彼が考えるスタルッカらしい振る舞いの一部がそうなのだろうか。
 自分に向けられた意識ならばともかく、他者同士の間で生じる感情の種類を読みとることに自信がない。そもそも普段と違うかどうか比べられるほど、彼の人間性に対する情報が蓄積されていない。
 松永 帰泉は常に他人に馴れ馴れしく見えたし、同時に全く興味がないようにも見えた。一時の快楽で合理性を投げ捨てる京楽的な一面もあれば、感情を排した冷徹な判断を下すこともあった。他人がどういう人間であるかなど分かるわけがない。しかも相手は常識の通じないポートタウンの住人なのだ。
 ぼんやりとした変化の手触りを、最終的にジンジャーは気のせいだと断じ、任務に関係のない雑念として記憶の中から追い出した。
◆◇◆
 黒く艶やかな円盤の上を針が滑り、夜の音を紡ぎ出していた。
 だが今は何も聞こえない。火薬が破裂する音に叩かれて、鼓膜が痺れている。無声映画のような世界。
 太陽の光が店のウィンドウに貼られたCAFEの文字を、テーブルに落としている。
 白く光を反射しながら舞う埃。
 どす黒い血が、床に広がっていく。
 頭に穴を開けた男が倒れている。力の抜けた手足が奇妙な方向に曲がっている。
 なぜと自問する。疑問ばかりが次々と湧いて、一つも答えが手に入らない。
 どうしてだ。どうしてこいつを撃った。
 なんであいつを殺さなかった。
 僕がこいつを殺すんじゃない。こいつがあいつを殺すんだろう。
 弾切れになるまで撃ちこんで、死んだ手足が何度も何度も跳ね上がった。
 耳が痛い。
 何も聞こえない世界で、悲鳴をあげて逃げ出す客と店員の後ろ姿が見える。
 空になった弾倉を投げ捨てて、再装填する。死んだ男に銃口を向けた腕が引っ張られた。調教師の少し高い場所にある目が松永を見下ろしている。
 もともと無声の男が、首を左右に振り外を示す。騒ぎが来る前に逃げるぞとその身振りが語っていた。返答を待たず少々強引に感じられるほどの力で手を引かれて、店の外に出た。歩いている途中にハンカチを手渡され、返り血を拭けと言われているのだと理解した。
 松永が調教師に接触をされるのを厭うていることに気づいているのかいないのか、肌には直接触れてこない。掴まれているのは手ではなくジャケット越しの腕だ。
 歩行の反復動作を繰り返すうちに、ようやく思考は落ち着きを取り戻した。
 先導する男の腕を振り解き、腕時計を見る動作で袖を捲って手首に刺青が浮いていないか確認する。墨の色を見れば鏡がなくとも異能が解けているかどうかが一目で分かるのだ。きちんとカレルヴォ・スタルッカの姿をしている。今は彼の影武者として行動しているのだから、彼らしく振舞わなくてはいけない。
 そうだ。近くに運転手が待機しているはずだ。
 思い出して電話で連絡をして迎えを呼んだ。警察がくる前にこの場から離脱する。スタルッカには今、別のところにいて仕事をしているというアリバイがある。本人が出向く必要がある公の仕事だから、目撃者の数も身元も十分に確保できる。だからとにかくこの場から逃げ去って知らぬ存ぜぬを通してしまえば、この件は公には犯人が捕まらないままうやむやにできる。
 目撃者が何人か騒ぐだろうが、所詮スラムの連中だ。スタルッカの体面はこの程度では傷つかない。
 問題は松永の立場だ。スタルッカの外見で人を殺したことに関する言い訳を、間違えてはいけない。堅気の人間とはいっても裏社会を心得た街の権力者であり、マフィアとの繋がりがある。怒らせれば命はない。
 あれはスタルッカの命を狙う刺客だった。殺したのは仕方がない。相手は銃を持っていて、正当防衛だった。警察にもスタルッカにもそう報告をする。
 だが、調教師はそれをどう思う。
 呼べば五分以内に駆けつける優秀な迎えの車に乗りこみ、隣に座る調教師の顔を盗み見る。いつもの通り。この男は目の前で何が起こっても顔色一つ変えはしない。
 いつも通り、だ。
 だが決して何も見ていないわけでもなければ、何も考えていないわけでもない。
 この男は松永の謀りに、気づいただろうか。
 頭を吹き飛ばされた男は、スタルッカを狙う刺客などではない。その顔を松永はよく知っていた。痛みを何度も教えこむことで調教師に恨みを覚えるように用意した手駒だ。
 調教師の手管は、緻密で十全だった。その技は体に刻みこまれて覚えているから再現はできたが、これほどまでに手間と金が掛かるものだとは思っていなかった。金は飼い主の懐から出ていたのだろうが、そう思うとかつての松永は随分と金と手間をかけられたペットだったんだなと、自嘲した。
 調教師に与えられる死は、理不尽であればある程にいい。心臓を止める直前まで刃が突き刺さることに無自覚で、いつものように無感動な顔を晒していて欲しい。だが復讐者として、調教師の殺害は彼を憎むものによって為されなければいけないと思っている。自分と近い憎しみを抱くものによって行われなければ、復讐にはならない。
 だから恨みの複製品を用意したのだ。そして彼らが調教師に接近する機会を作るために、手間をかけてスタルッカからの依頼を用意した。松永がクロックワークキッチンに持ちこんだ偽の依頼は、必ず断られた。
 事務所で話をさせられることと、一度も姿を見せないがどこかにいるはずの四人目が影響しているのは間違いない。依頼の拒否は松永に対する不信か、こちらの嘘や殺意を感じ取られているのか。あるいは本当は依頼人など存在しないということが、調べられているのか。どういう事由で断られているのかわからないのが、最大の不安要素だった。
 よほど優秀な情報収集能力を持った人材あるいは、何かしらの異能者なのだろう。単なる感覚強化であっても、人の嘘を見破ることができる。それができる男を、松永は少なくとも一人知っている。
 失敗すれば別の手を考えるだけだが、今回の依頼も一か八かだった。
 本当はスタルッカを狙う勢力などありはしない。彼からもっと便宜を引き出したいと思っている人間はいても、殺してしまえば意味がない。存在しない敵をあるように見せかけ、マフィアたちを疑心暗鬼に陥らせて今の状況を作り出した。
 スタルッカの傍に派遣されるマフィアの手勢は、私欲によって上に与えられた指示を違えたりしない信頼が厚い人間になる。だから彼らが信頼する人間に化けて、あいつらは敵だとそそのかせば、簡単に殺し合いをさせられるし互いへの敵意と猜疑心を植えつけられる。緊張を高めた後は、完璧な影武者を演じることができるといってスタルッカに取りいる。死なない程度の暗殺計画を実行させ、スタルッカを救い出して信頼を勝ち取った後にクロックワークキッチンを紹介する。
 狙った通り、スタルッカは松永を信頼した。そして依頼主が権力者であることが功を奏したのか、それとも話を通したのが松永でないのがよかったのかクロックワークキッチンはこの仕事を受けた。調教師とジンジャーを二手に分かれさせることにも成功している。それなのに。
(なんでこんなことになった)
 思う通りにならない手駒のせいだ。
 数ヶ月かけたのに、使えるようになった人間は二人だけだった。使えるようになったというのは用意してやったチャンスを掴んで、あの拷問室から逃れることができたという意味だ。自力で立ち上がる強さを持たず状況に押しつぶされてしまうような輩なら、必要ないし使えない。
 新たな手駒の仕込みと並行して、生きている駒を追いかけて管理し続けることは難しい。これ以上時間を掛けることはできず、手札を駆使してことを進めるより他なかった。残った二人は淡い期待をかけて病院にぶちこんだが、体の怪我が癒えた後は精神病院に移送された。
 仕事の合間に辿ってみたが一人はその後、自殺したらしい。
 それを聞いたとき手間を掛けたのに残念だという気持ち同じくらい、清々した。役立たずの道具が、いつまでも生きのさばっていていいはずがない。
 これで仕込んだ人間の内、生きているのは三人になった。二人は松永の恨みの複製品として機能している。
 残る一人の消息を追いかけたのは、彼らの人生を壊した者としてせめて終わりを見てやらねばならないという僅かな義務感と、なんの役にも立たなかったのならせめてその惨めな死に様でこちらを楽しませろという苛立ち混じりの傲慢だった。
 精神病院という場所に、人の心を修復する技術があるとは思えない。格子のはまった窓と、形だけはパステルカラーで目に優しい衛生的な監獄。人当たり柔らかく繕った待合室で、収監された手駒を担当していた看護師を待った。
 大抵こういう場面では、被害者の姿を写しとればいい。身に着けているものや化粧をやや若くするか大人びたものにして身内を名乗れば、あっさりと信じてもらえる。死んでいた場合などは、看護師や担当医が驚いた顔をして向こうから話しかけてくるから、話を聞くべき相手は更にわかりやすい。
「退院されましたよ」
 善良そうな顔をした男性看護師が告げた言葉を、松永は聞き返していた。
 ゴカゾクノカタガオムカエニキテ、イマハジタクリョウヨウサレテイマス。
 そこにいるのが宇宙人が何かに思えた。そんなことが、あるわけがない。あの地獄から逃れる力もなかった弱者が、家族と共にまともな社会生活。笑えない冗談だ。そんなこと、あっていいはずがない。
 胸の内に湧いた感情をどこに持っていけばいいのかわからないままに、病院から逃げ出した。思い返せばあの激しさは殺意だったと思う。
 焦ってことを起こす必要などどこにもなかったのに動いてしまった理由は、今となってはそれ以外に思い当たらない。準備も動作確認も不十分だったにも関わらず、貴重な恨みの複製品を喫茶店に配置し、調教師をおびき出していた。
 その結果がこの様だ。
 苦い後悔しかない。
 調教師に渡されたハンカチで返り血を拭ったが、布で擦った程度で粘つく血は落ちない。ハンカチと肌の両方に汚れが広がっただけだった。
 なんで、僕が殺した。なぜそんなバカなことをしてしまった。
 顔に血がつくのも構わずこめかみを押さえる。濃い血の臭いがした。
 苦痛を与えたときと同じレコードが鳴っていた。男には拳銃を持たせていた。あんな経験をした後で健常者に混ざって社会復帰できるはずがない。だから、いい仕事があると耳元で囁いてやればそれが胡乱な話でもすぐに食いついてくる。詳細は会って説明するから事前に渡した拳銃を持ってきてくれと、公衆電話で指示する。
 凶器を持っていたタイミングで、因縁の相手と偶然に居合わせる。
 調教師の目立つ外見は他と間違えようがない。重ねて痛みの記憶を呼び覚ます時代錯誤のレコードの音。
 窓から差しこむ赤い夕日。温度のない調教師の目の色。
 地獄の日々を思い出し激しく胸の中で燃える殺意が、やつを撃ち殺してくれる。
 憎いはずだ。憤ろしいはずだ。目の前にある過去の傷を消してしまいたいはずだ。
 そのはずだった。
 なのによりによってあの野郎、調教師の前で床にへばりついて懇願しやがった。
 恐怖に見開いた瞳、歯の根が合わずにおののく顔。何もかもが不愉快だった。
 気がつけば松永は引き金を引いていた。ただでさえ少ない手駒を自らの不手際で、消してしまった。
 だがこれではっきりした。恨みを抱いただけでなんの訓練も積んでいない素人に、殺しは難しい。銃口を相手に向ける。恨みと怒りは、人を殺したらどうなるかという常識と倫理に衝突して敗北してしまう。そうなると床に這いつくばるのが精一杯だ。
 残りはあと一人。チャンスは、一度しかない。
 確実にやるのなら、自ら手を下すしかない。松永はずっとそれを避けていた。調教師との間にある因縁を、人に知られる危険性を孕むからだ。何もなかったことにしたい。自分につながる過去の全てを消し去りたい。それを暴かれてしまったら、手間をかけて遠回りなやり方で、調教師を殺した意味がなくなる。
 調教師は死んでも仕方がなかった。そういう状況を作らなくてはいけない。そうでなければ、彼と二人で行動していた松永が疑われるに決まっている。松永とクロックワークキッチンがたまたま一緒になり、任務の都合でたまたま他の仲間から離れていた彼だけが命を落とす。それが不自然でない事態を、そう何度も作れるわけがない。
 疑われる。
 実際、疑われているからこそカレルヴォ・スタルッカという男を介さなければ依頼を受けさせることすら難しかった。次はない。
 今回の依頼を無事に完了するまでがタイムリミットだ。そして実際は敵対勢力など存在しないパーティーは、松永が謀を巡らせなければつつがなく終わってしまう。
 スタルッカにことの次第を説明する松永は、調教師に余計なことを喋らせまいと必要以上に言葉を募った。口がきけない男の告げ口を恐れるなど、愚かな話だ。それでも焦りは言葉に出てしまった。
 落ち着け。最近スタルッカの身辺についたばかりのクロックワークキッチンの面々よりも、松永は信頼されている。調教師が疑いを持っていたとしても、依頼の達成に必要なことであればあの男は動かせる。
 焦りを出すな。ここは舞台だ。そこに自分を持ちこむから、動揺する。役者に徹しろ。役割を演じると思えば、平静を保つことができる。自分が描いたシナリオ通りに事態を進行させろ。自我を仮面の裏側に隠す。
 うまく演じられる。いつだって誰にだって成り替わることができる。それが僕の異能。松永 帰泉という男の本質。
 カレルヴォ・スタルッカへの報告という名の台本を読み終える頃には、松永は胸中の波の影響を全て舞台裏の出来事に沈めていた。
 この世の全ては、不確定要素でできている。それをレールに乗せて一本道を走らせようとするから脱線する。失敗する。難しく考えず用意した小道具と舞台の中で、エチュードさせればいい。全てはアドリブで進行するが舞台からはみ出ることはない。道ではなく箱庭を作ればいいのだ。
 そして舞台となるパーティー会場に、この日のために用意した役者たちが集まっていた。
 パーティー会場には、声を決して荒げず歯を見せて笑うこともなく感情表現を常識の範疇に収めるお行儀がいい優良市民の皆様がいる。マフィアどもも内側から滲み出てしまう柄の悪さはともかくとして、牙を覆い隠して無害を装う程度の良識は持ち合わせている。
 どいつもこいつも本性を隠すのが下手な大根役者。
 スタルッカ本人がこの場所にいるから、松永は自分自身の姿でその場所にいた。会場で浮かないように上等な服を拵えてもらっていたが、いざというときスムーズに入れ替わりすることを最優先にしているため、体格に合っていない。服に着られている感が否めなかった。すぐに駆けつけられるように、スタルッカに近い場所で、死角を作らないように壁際で待機をする。
 更に護衛対象に近い位置には松永よりも会場に馴染めていない背の高い男。ジンジャーの金色の髪が見えた。パーティーシーンに置かれることに慣れていないなりに護衛の職務を全うするべく、居心地が悪そうに寄せた眉根は油断なく周りにいる全ての人物に向けられている。
 松永は襲撃者がいつ来るかわかっているから、彼のように気を張っている必要はない。ただ定刻になるまで待ち続けるというのは退屈で、煙草を吸いたいという欲が増してくる。せめて緊張を保っている振りくらいはしなければ不自然だから、喫煙所に抜けるわけにはいかなかった。
 スタルッカも調教師も、用意した手駒にどうにかできるとは思っていない。プロでも難しいのに今回の暗殺計画を実行するのは素人だ。連中はただこの場所で騒ぎを起こしてくれればいい。不測の事態が起こったと思わせて非常時の対応をとらせればそれでいいのだ。
 やがて一つ目の舞台装置が作動した。
 真面目な男はアドリブのない事前に定められた通りの動きで依頼人を庇った。ジンジャーの広い背中に隠されて、体を低くしたカレルヴォの姿が見えなくなる。その隙に松永はスタルッカと上着を交換し、入れ替わる。松永はなりかわったあと、派手に護衛を呼ぶ動きで目を引き、クロックワークキッチンは依頼人と共に地下駐車場から離脱する。そういう手筈になっている。
 会場を後にする本物のスタルッカの背中と金色の髪と赤いスーツ姿を見送った。
◆◇◆
 街の有力者に恥じぬ広々とした家。
 中を見通せない高い塀に囲まれ防犯カメラが一定間隔で付いているから、普通の人間の家ではないとわかる。
 目的地であるはずのその建物から、黒煙が上がっていた。続いて爆煙が上がる。振動は大気を通して車まで伝わってきた。
「だ、だめだ。ダメだ」
 スタルッカが動揺した声で、運転席のシートを叩く。
「引き返せ」
「会場は危険です」
 ジンジャーがスタルッカを止める。
 会場に残してきた松永の異能が完璧に相手を模倣して身代わりを果たしている。見破られることはないだろうが、会場に戻れば敵の増援に見つかり巻き添えを食う可能性は大いにある。
「セーフハウスがある。そちらに一時退避だ」
 告げられた住所を確認し、ハンドルを握るブリュレがコクリと頷いた。
 マフィアが提供してくれたのだというその場所は、スラムのど真ん中にあった。
 そんな治安の場所に逃げ込んで大丈夫なのかと一抹の不安を覚えたが、裏社会からの支持は彼の足場そのものである。マフィアという盾が揺るがされ突破されて脅威にさらされることがあるのなら、スタルッカという男はもう守るべき価値のない存在ということなのだろう。
 依頼主の意向だ。反対する理由はない。
 指示された住所は単なるマンションにしか見えない。しかし、それにしては妙に壁の厚い建物だった。
 車を降りたスタルッカが、建物の中に消えていくのを見送った。
「ともかくこれで依頼完了、なんだよな?」
 助手席に座るサラミに確認をする。無口な男は助手席で頷いた。
 帰っても良いという判断が下された。少なくとも今この場所でできることはない。状況を確認し報告して指示を待たなくてはいけない。ブリュレがシフトレバーに手を掛けたとき、運転席に影が差した。護衛の習性としてジンジャーは身構えたが、窓に手をつき車内を覗きこんでいたのは松永 帰泉その人だった。
 窮地に於いても腹の底を見せない彼には珍しく、焦った顔をしていた。乱れた前髪を後ろに撫でつけるのも忘れている。
 防弾ガラスをノックしながらくぐもった声で喋る。会話をするためにジンジャーが窓を開けると、松永は後部座席の方に来た。
「依頼人は?」
 無事にセーフハウスに避難して、依頼は完了した。胸を撫で下ろし、あとは報酬が取り決め通りに支払われるかだけを心配していればいいはずの場面だ。
 しかし報告を聞いた瞬間、松永は顔色を変えた。窓から腕を突っこみジンジャーの胸ぐらを掴む。
「家を押さえられてるのに、こちらが無事だと?」
 詰問の口調に返す言葉はない。
「ジンジャーさんは依頼人を護衛して、市内のホテルで待機してください。安全が確認できたら連絡します。僕はその間、依頼人に化け調教師と囮になって残党狩りを」
 どうするという意を込めてサラミの顔をちらりと見る。三人の中ではリーダー格を勤めている男が小さく頷いたので、松永の作戦に従うことが決定された。部屋に逃げ込んだ依頼人を迎えに行くため、後部座席のドアを開けて車から降りる。
 主体的に口を開くことなど稀であるブリュレがその疑問を口にしたのは、なんの因果だっただろう。意思を示さない彼女に対して油断があったからこそ、松永の内心を鋭敏に感じとれたのかもしれない。
「……なんでわかったの」
 不測の事態で、途中で道を変えてやってきたセーフハウス。
 まだ、誰も彼に連絡を取っていないのに。
 なぜ、松永は行き先が変更されたことと、この場所を知っている?
 そういう意味の質問だった。
 ピタリと全員が動きを止めた。依頼人とセーフハウスに向いていた注意が、松永に注がれる。三対の瞳が黒い瞳を見つめる。
「ああ、そっちが気がついちゃう? ブリュレさん見た目によらず勘がいいんだなぁ」
 松永はおどけた動作で両手を肩をすくめた。
「まさか、依頼人は」
「あーあー、そういうのどうでもいい。たぶん無事ですよ、自宅に刺客でも潜んでなけりゃね」
 緊張の糸を断ち切ったのは、金属の閃きだった。
 気怠げな立ち姿から一転、腕を跳ね上げた松永の拳の隙間からプッシュナイフの刃が覗く。最も近くにいたジンジャーを狙ったが、彼は動物的反射で応えた。
 急所を庇うように構えた上腕にナイフが刺さる。傷は浅いが焼けつく痛みに顔をしかめる。勢いを殺すために後ろに飛び退いて、数歩たたらを踏んだ。
 松永は相手に刺さったナイフを手放して、ジャケットの下に隠した銃を構える。車の前に立つサラミに向ける。
「僕は、あんたが殺せればなんでもいいんだ」
 抜きざまの発砲は狙いが定まらない。威嚇射撃だ。発砲音に通行人が頭を低くし、逃げていく。それでいい。余計なギャラリーはいらない。
 松永と同じく銃を構えようとしていたサラミは、その敵意が依頼人ではなく自分に向けられていることを認識すると即座に体を翻した。
 車に乗りこむ背中に狙いを定める。だが、射線をジンジャーの広い体が遮った。眼鏡の向こうの瞳と視線が絡んだ瞬間に、引き金にかかる指が重くなった。
 一瞬の躊躇いが拳を振るう隙を生み、拳銃が弾き飛ばされる。
 拳を握りしめた男の顔には殺意が薄い。畳み掛ければ制圧は容易だったのに、松永には彼から距離を取る余裕があった。
 ジンジャーは腕に刺さったナイフを抜いて、松永に拾うことができない場所に投げ捨てる。アスピリンの錠剤を取り出して無造作に噛み砕く姿に、傷つけ傷つけられることに慣れきっている彼の狂気を垣間見た。気弱で腰の低い男という評価を下し、大型犬という印象を覚えていた男は、けして牙の折れた犬などではない。
 松永と同じく、修羅を抱えているスラムの住人だ。
「やめてください。依頼、ですか?」
 まだ獣は起きていない。ジンジャーは眉を八の字にして、松永を見た。
「いいえ、単なる私怨ですよ」
「私怨?」
 心当たりがない、という顔を見て松永は笑う。
「思ったよりも世間は狭いってことですね」
(つくづく、平和な人だ)
 サラミと松永の間にある因縁とどす黒い感情を、本当に少しも感じていなかったのだ。怯えも恐れも恨みも嫌悪も、見えてはいなかった。世界の全てが彼と同じくらいの解像度で周囲を認識してくれていたのなら起こらない争いが、世の中にはたくさんあるだろう。
「手を、引いていただけませんか。俺は守ることしかしたくない」
 いつも人との距離を慎重に測る強張った声が、今は更に硬く緊張していた。
「そちらこそ。僕、好きなんですよ、あなたみたいな可哀想な人。調教師を譲ってくれませんか。あいつの命さえくれれば、あなたを傷つけないで済む」
 侮辱の言葉に対しては眉一つ動かさず、ただサラミの命を求めたことに対してのみ眉をひそめた。
「……残念です」
 手にメリケンサックを装備し、拳を握って構え直す。彼が本気になったことがわかった。その後ろで車が急発進して走り去る。
 対する松永は武器を構えることはない。ジンジャーが眉間の皺を深くした。丸腰に殴りかかるのは腰が引けるか。
 戦う意思がないわけではない。ただ組み合う前に、敵に武器を見せるスタイルではないだけだ。それを戦う意思がないと読み違えて、拳を鈍らせるならそれでいい。もともと闇討ち狙いで計画を組んでいた。正々堂々と相手と立ち会うなんて、松永の柄ではない。
 一呼吸置いて、先に仕掛けた。
 体を低くし、懐に潜りこむようにして距離を詰める。
 松永の一撃は、軽い。
 体格差、体重差、筋力量の差。急所狙いでなければ、受け止めることができる。そう相手に思わせておいて、打撃の隙間に暗器の一撃を仕込む。
 懐に入る前に太い腕が進路を塞ぐ。予想の範囲。一発入れて距離を取るつもりだったが、防御の構えを攻撃に転じてジンジャーが踏みこむ。拳を突き出したままに前に重心をかけていた松永は、体を低くしてそのまま転がり足元を抜ける。
 地面に手をついて素早く体を反転させ、脚を狙って蹴る。ジンジャーの背面蹴りと交差した。
 体を反らせた胴の脇で抜けた風音。体重が乗った一撃の重さを肌に感じる。靴に仕込んだスパイクが交差の一瞬にふくらはぎを削ったが、動きを止められるほどの深手ではない。
 攻撃を予測しようと目の動きを追う松永と、踏み抜く動作に転じたジンジャーの視線が絡む。その顔に気弱な部分はなく、感情を排し冷静に状況を判断している。どんなに大人しい顔をしていても、やはりポートタウンの住民だ。
 地面を転がり距離を取る。跳ね起き、ベルトの後ろに手を伸ばす。
 立ち上がる猶予はなく、地面に指をついて低く構えた瞬間に、視界に影が差す。
(くそ、はっやいなこの肉ダルマ)
 上から叩き落とすような拳の一撃。避けきれない。左腕を構え、メリケンサックが腕にぶつかる瞬間に横に流す。予測よりもタイミングは早く。拳の速さを意識して対応したにも関わらず、受け流しきれなかった膂力に腕の肉が潰れる。筋繊維のちぎれる音。軋む骨。関節が悲鳴をあげる。衝撃が指先から肩までを揺るがし、膝をつく。
 歯を食いしばって壊れた左腕を後ろに振り流し、ジンジャーを懐に引きこむ。
 間合いだ。
 ベルトに仕込んでいたプッシュナイフを抜き放ち腕を突き出す。刃の切っ先が食いこむ手応え。同時に殴りこむジンジャーの追撃が、松永の肋骨をへし折る。肺から空気が叩き出されて、体が動かなくなった。
 骨の折れる音。衝撃が腹から胴を駆け、脳天に抜けた。
 意識が飛んだあと、激痛で引き戻される。うっかりDVDのスキップボタンを押したようにシーンが飛んでいる。現実にコントローラーはなく、したがって決して逆再生せず取り返しのつかない一瞬に、ジンジャーは松永を制圧していた。
 右手を掴まれ、首に腕を押しつけられている。上体を起こそうとしたが、ぐいと地面に押しつけられた。息を吸おうと横隔膜を動かした途端に痛みが襲い、なんとか酸素を得ようと喘ぐ。
 ジンジャーの体重をはねのける力ない。
 呼吸を浅く不規則にしていく松永とは対照的に、深く息を吸いこんで己を鎮めてから、ジンジャーは口を開いた。
「もうやめてください」
 その声は悲痛だった。心底そう願っているのだろう。痛ましいものを見る目で、腕を抉り肋骨を折られた松永を見下ろすジンジャーはしかし、必要とあれば松永の首の骨をそのまま折ることができるのだろう。
 それは偽善だ。そして欺瞞だ。
「あなたが止めるんですか」
 その自覚を持ち合わせない傲慢をせせら笑う。
 松永の体が膨らむ。折れた骨が軋み、腕が喉を締め上げ手首に指が食いこんだが、構いはしなかった。
 異能を使い外見を変えた。現れた男は、ジンジャーと同じ顔をしている。
 力は緩まない。
 だが、息を飲んだ。
 突きつけられた顔に、動きが止まる。
「僕は過去を葬りたい。その気分はジンジャーさんにも分かると思ってましたよ」
 その言葉を発した男は、同じ顔をしているが同じ人間ではない。任務で彼の外見を整えた際に披露した姿だ。十二時になった瞬間に溶ける魔法が見せた幻。
 あなたの見た目ならこういう格好の方が似合うんじゃないかと、松永という男がジンジャーの顔を使って服装と髪の毛のセットとわずかばかりの化粧と、そういうもので作り上げた姿だった。
 それは驚くほどに過去の面影を孕んでいたのだろう。痛みや悲しみよりも、空虚さに胸を満たされた顔でジンジャーは笑った。その男が、松永の抱える痛みを知らないわけがない。
「あなたはジーマを殺したんじゃないのか。僕を止めたいというあなたは、昔の自分を正面から見つめて生きていけるんですか?」
「殺した……?」
「違うっていうならこの面をした男は、どこにいったんだよ。なぁ、ジーマ」
 ごぼと吐き出した血で言葉を詰まらせながら、松永は唇を歪める。その顔はこれから恨みで人を殺すには、あまりに享楽的だった。
 かつてジーマと呼ばれていた男なら、そんな笑い方をしたこともあったのだろうか。口を開けて、楽しくて仕方がないと、歯を見せたんだろうか。
 あったのだろう。あったはずだ。
 かつてのような豪傑は、確かにジンジャーの中に存在しない。当時の姿を振り返っても、借り物の礼服を着ているような居心地の悪さを感じるだけだ。それは松永のいうところの、殺したことになるのだろうか。
「……どこにも、行っていない」
 まだ生きている、と思う。少なくとも、ジンジャーはその面影を自分の中から排斥したつもりはない。どんなに隔たってしまっても、地続きに存在している。
 返答を聞いたジーマの顔から、表情が落ちた。つまらないなと冷めた目が語っている。その表情はかつてのジーマではあり得ない松永自身の感情だ。
「あぁ、そう」
 吐き捨てるような声だった。言葉の代わりに彼が吐きだしたのは、喉に溜まる血反吐だった。
 拳で打ちこんだときの感触では、肋骨が折れている。これ以上、無理に動けば死に至るというのが、仕事の過程で人を傷つけ傷つけられてきた肌感で理解できていた。
「俺は、殺したくないんです」
「どちらを?」
 揶揄うように松永が言う。
 仕事を共にしたことのある松永という男を殺めたくないのか、それとも過去の面影を見せるその顔を葬ってしまいたくないのか。
 本当は過去を殺したいんじゃないか、と問うていた。
 その答えを確と出せるなら、道に迷うことはなかっただろう。だが、出す必要はない。クロックワークキッチンという場所は、そんな風に曖昧な形でいることを許してくれる。
 じわとジーマだったものの輪郭が溶けて戻り、骨の細い東洋人の体がジンジャーの体重を受けて腕の下で軋むのがわかった。
「これで、殺しやすくなりました?」
「あなたは、死にたいんですか」
 死を恐れないとも違う。その情動。
 笑おうとした顔が、痛みに耐えて歪む。
「もう、限界のはずだ」
「ジンジャーさんがね」
 松永の言葉は、体の異変を自覚させた。
 戦いの高揚が冷めるごとに遠ざけていた戦闘の疲労が戻ってくる。傷の痛み。怪我のせいだと思っていた指先の痺れ。腕に力が入らない。体を支えていられない。
 崩れ落ちる。折れた骨にジンジャーの体重が乗り、松永は激痛を奥歯で噛み殺して体を二、三度痙攣させた。
「これ、は?」
 舌が回らなくなってきているジンジャーの体の下から這い出す。
「図体がでかいと、毒が回りにくい」
 言いながら、プッシュナイフを振ってみせる。
 そこには毒が仕込んであった。二本分も叩きこんだのだから、しばらくは体を動かせないはずだ。よろめきながら立ち上がった松永は、すでに見えなくなった車の行方を無意識に見ていた。
 ブリュレは決断は遅いが判断は早い。ゆえに既に決まっている事柄は、非常に滑らかに遂行する。
 ゆえに、だ。
 あの女は急を要する不測の事態が発生したら、予め決められたルートを取る可能性が高い。ここからどう逃げるかはすでに確認している。調教師がそのことに気づいてルート変更をしていなければ、先回りできる。
 確実性はない。だがここまで来てしまったら成功率など関係ない。仕損じれば終わり。何もかもが賭けだ。追いつけるのか、それまで意識を飛ばさずにいられるのか。
 落ちていた拳銃を拾い、運悪く通りかかったバイクの運転手を射殺した。横転したバイクを起こすのに、一生と思えるような時間がかかった。エンジンをかけると振動が傷に響く。
 乗っていられるのかという不安を、意思の刃で刺し殺して黙らせる。
「まつ、ながさん。やめてください」
 ジンジャーが言葉を絞り出し、立ち上がろうとしていた。まだ動けるのか。驚嘆すべき頑丈さだ。
 攻撃を警戒しながら近づく。彼の懐からアスピリンの錠剤を拝借した。腕を掴もうとした手から逃れて、笑う。忸怩たる顔をして見つめてくるジンジャーは、元の通り松永の好みの可哀想な人間だ。
「死にはしないんで、しばらく寝ててください。あなたが追いついて来るころには全部、終わっている」
 だから大丈夫ですよと金髪を優しく撫でる。
 時計を確認する。まだ十分と経っていない。追いつける。
 拳を食らった部分が気色悪い色になっている左腕をハンドルに引っ掛けた。バランスを取る助けになる程度には動く。肉が潰れているが、骨が折れたわけではない。アスピリンが効いてくると、マシに動くようになった。
 路地裏にバイクを向ける。何人か轢き殺そうと知ったことかと思っていたが、衝撃に耐えられる気はしなかったので一応避けてやった。
 気ばかりが急いて運転がままならない。
 限りない幸運を重ね、果たして車は松永が先回りした場所にやってきてくれた。応戦ではなく逃亡を選択し、過去に使ったことがある通い慣れた道を選択したのだ。
 路地から車の進路に飛び出し、乗ってきたバイクを路上に引き倒す。エンジンをかけたままガソリンタンクに発砲する。
 爆煙が上がった。ぶつかる寸前でハンドルを切った車が歩道のゴミ置場に突っこんで、白煙をあげて停車した。その後部座席にサラミの姿が見える。ブリュレがどうしているか、ここからは見えなかった。
 発砲すると後部座席のガラスが白くひび割れ車内の様子は見えなくなった。構わずに、弾倉が空になるまで撃ちこんだ。体を引きずりながら車に近づく。
 リロードが上手くいかないが、構わない。銃が撃てなくてもナイフの間合いに入れればいい。あいつの心臓か頸動脈を刺す。それで、終わる。
 銃声が止んでしばらくしてから後部座席からサラミが出て来た。
「調教師!」
 松永が吠える。無駄のない動きで、呼ばれた男がくるりと振り向いた。目が合った瞬間に、体の芯が冷えた。熱をもった体と傷の痛みと息を吸うことすら苦しい怪我。そんな何もかもを押しのけて差しこんでくる恐怖。
 そんなものはないと首を振る。思うようにならない手がもどかしい。調教師が近づいてくる。コツコツと規則正しい靴の音が、焦燥を煽り威圧する。
 ようやく、銃が弾倉を飲みこんだ。
 銃を構えるが、乗馬鞭が風を切った。手に激しい痛みが走る。
 銃が弾き飛ばされた。隠したナイフに手を伸ばす。いつもの動きをしようと咄嗟に上体を捻った瞬間に体が悲鳴をあげ、意識の支配から離れた。手足から力が抜けて膝をつく。
 振るう刃は空を切った。力の入らない手からナイフはいとも簡単に叩き落される。
 怪我が痛むからだ。言い訳をして、震える指にもう一度ナイフを握らせる。避けずとも当たりはしない、貧相な軌道。
 再びナイフが叩き落とされ、拾おうとした手のひらが革靴で踏みつけられた。
 殺気の薄い攻撃に、調教師が首を傾げる。
 乗馬鞭の先が松永の顎に張りつき、歯を食いしばる顔を上に向かせた。
 殺意を向け武器を振るうのに、少しも刃を届かせる気のない振る舞い。どんなに恨んでも憎んでも、殺したいとさえ思っていても、飼い主に決して逆らわない、従順な犬の振る舞い。
 彼は調教師として、とても優秀だった。
 過去の亡霊ごときに殺せるわけがない。恨みを複製したところで、刃が届くわけがない。松永自身に、それができないのだから。
 目の前にすれば、腕一本動かない。複製品などよりもよほど強固に魂は縛りあげられている。
 視線を横に流す。その行方を調教師も辿った。道路を滑った拳銃がそこに落ちている。届かない位置ではない。だがそれに手を伸ばすことの無意味さを証明してしまった今、拾う意味はなく調教師にも阻む理由はない。
「殺せばいい」
 松永が顔を歪めた。
「僕は、あなたを殺そうとしたんだ」
 この男は、とうにわかっている。
 松永にはできない。どんなに殺意を語ったところで、手が動かない。どう足掻いたところで、脅威にはなり得ない。眼前に立てば、勝てないという事実を思い知らされるだけだ。
「殺せよ、調教師」
 ジンジャーの問いは、正しい。
 松永は死にたい。終わらせて欲しい。このままでは前に進めない。
 だが、望むべくもないことだ。調教師は、松永に何も与えはしない。ただ仕事の通りに動作した。それだけのこと。
 乗馬鞭が、離れた。
 危険はないと判断された。屈辱的だった。
 無言のままに靴音が遠ざかる。車に戻り、エアバックを割いて挟まれたブリュレの体を引きずり出し安否を確かめている。
 その背を追いたかったが、気持ちだけが前に行き体は倒れた。
 喉から血が溢れる。叫ぼうと息を吸いこんだ途端に激痛が走って、胸を抱えてうずくまる。痛み止めを噛み潰すが、少しも楽にならない。ごまかしながら走り続けた肉体に限界がきている。
 ちらりと感情の色が薄い目がこちらを見たが、松永に追いかける力がないことを確認するとそれ以上の興味は向かなかった。
 松永の復讐の、これが結末だ。
 煙草を咥えて火を付ける。煙を吸いこんでいるのだか、血を吐き出しているのだかわからない。
 横隔膜の動きに従って喉を通り抜けていく、気体と液体。
 気道が残り少ない水をホースで吸い上げているような、耳障りな音を立てる。
 ホテル ノーデンスに、行かなければ。
 怪我が酷い。ようやく効いてきた痛み止めの影響か、単なる失血多量か。どうしようもなく眠くて体が重い。意識が落ちてしまう。まぶたを閉じる前に、立ち上がらなければいけない。
 ノーデンスに。あそこに戻って、寝て。それから考える。
 街灯に手をつく。
 まだクロックワークキッチンの二人はいるのか、もう立ち去ったあとなのか。確かめる余力もない。顔をあげるのも周囲の音を聞くことも億劫だ。
 体を地面から引き起こす。なんとか立ち上がることができた。
 だらりと力なく見下ろした先に、落としたはずの拳銃がない。
(調教師が、回収したのか?)
 パン、と乾いた音がした。
 衝撃に腹を突かれて、地面に膝をついた。
 腹に赤く、バラのように、赤い色。
 手で探った服に、穴。溢れ出した血が体内の温度。
(なんだ?)
 理解が追いつかない脳みそは、最も慣れた動きをしようとする。
 煙を吸い、吐き出そうとする動き。それができない。血が溢れて、息が苦しい。
 目の前に立って青い顔で銃を構える男を、松永は顔しか知らなかった。
 過去の亡霊。松永の、恨みの複製品。
 なぜ。
「お前だ……、その〝煙草の匂い〟お前に間違いない。俺を、あんな目に合わせた」
 男が絞り出した言葉を聞いて、笑おうとした。そんなことでバレるのか。
 なんで僕にできなかったことが、複製品のお前にできる。
 これで終わりだ。
 僕に足りなかったものはなんだ。
 立ち上がれた連中にあって、僕に足りなかったものはなんだ。過去を引きずったまま歩いて行けたやつが手にしたものを、僕が得られなかったのはなぜだ。
 日頃の行いとでも言われれば、大いに諦めがつく。そうであって欲しかった。
 でも結局のところ、全ては運だ。異能を持って生まれたのも、それを利用されたのも、ドブみたいな街に落ちたのも、苦痛を和らげてくれる誰かが隣に居てくれなかったことも、偶然の結果でしかない。
 どうにもならないことだった。
 たまたま宝くじが当たった誰かを妬んだところで、手の中には何も残らない。
 どうにもならないと心の底では気づいていたのに、絶望を潔く受け入れることも、孤独を恐れ生きた体温を求める弱さを、認めることもできなかった。
 調教師を殺せば、前に進めると思っていたんだ。
 自分と同じ苦しみに人を落とせば、溜飲が下がると思っていたんだ。
 手駒にした連中だって、僕と同じく誰にも助けてもらえないと思っていたんだ。
 嘘は剥がれた。辛うじてそれで表面を覆って誤魔化していたのに。異能と同じだ。外見をそれらしく繕っているだけで、中身はずっと僕のまま。何にもなれない。生まれ変われなどしない。過去は消せない。知っていたよ。ずっと傷は痛いままだった。
 羨ましいな。
 過去を引きずったまま生きていけるのも、命を賭して助けてくれる仲間がいるのも、そうまでして助けたい誰かがいるのも、何もかもが羨ましい。
 前に進んだところで、行く場所なんてない。この道に先はない。
 もう死んでいるからいいんだと、ガキみたいな虚勢を張って強がっていた。
 僕にもあんなふうになれるチャンスはあったんだろうか。
 例えば、素直に弱さを曝け出していたら、受け入れてくれる誰かはいただろうか。
 例えば、助けてくれと言ったなら誰かが手を差し伸べてくれただろうか。
「助けてくれ」
 試しにつぶやいてみたが、惨めな命乞いにしか聞こえなかった。
 意味がない。銃口を震わせながら息を荒くしている名前の知らない誰かが、顔を歪めただけだ。
「冗談だよ」
 本気にした? と男は笑う。
 力が抜けた唇から、血溜まりに煙草が落ちる。
 誘蛾灯で羽虫が燃え尽きるような、ジという音を立てて火が消えた。

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