ホールの客は腹の底に響くEDMの重低音に体を揺らし、安酒を満遍なく脳みそに染み渡らせようとしている。
カウンターの隅の席が埋まっていた。熱狂の中心から一番遠く女がナンパ待ちをする席。
だが骨ばった体のラインと、刺青の下で浮き上がった喉仏は男のものだった。
薄い胴体。
暗い店内と色を変えてゆくライトで分からなかったが、近づくと男が黄色い肌をした東洋人だというのが分かった。
指の間に挟んだ煙草から紫煙が細く筋になって立ち登り男に纏わりついている。火を付けたまま吸うのを忘れ、灰が自重に負けてカウンターに落ちそうになっている。
口元に手を当てて何事か考えこんでいる。視線はグラスに残った溶けかけのロックアイスに注がれていたが、それを眺めているというよりは、意識の舫綱を引っ掛けて考えことに没頭するために丸い氷を使っているだけのように思えた。
「隣、いいかしら」
声をかけると、男は我に返ったように煙草の灰を落とし、意識をこちらに向けた。声を出す前に喉を潤そうとしたが、グラスの中には氷の溶けてできた酒の風味をまぶした水しか残っておらず、店員にオーダーを飛ばした。
「もちろん、どうぞ」
にこりと笑った顔には、一人でカウンター席に座っていたような翳りがない。彼がむしろ軽薄そうな印象すら与える笑顔を見せることに驚いた。
「それ刺青、何の模様?」
首に咲いた一際目立つ黒い花。
それとは別に、煙草を掴む手首から下に黒い幾何学模様も見えている。
「見る?」
男が笑う。
「どこまで入れているの」
「さあ、脱がせたら分かるんじゃないかな。どうする?」
するりと男は自分の首元に手を伸ばし黒い花の模様を撫でた。オーバーサイズのTシャツの襟首に指を引っ掛け、ぐいと引き下ろす。露わになった胸元には鎖骨の膨らみの先、肩の方に黒い色が見えている。
だが胸のその下や腕の先に続いているのか、全容はそれでは見えない。
黒い瞳を細めて男が笑う。真意の読めない漆黒。薄いまぶた。
まだ、見えていなかった。
窓ガラスの抜け落ちたビルの一角。廃墟になって久しい建物の内部にあるのは、壁から飛び出した配線の名残と、盗む価値もなく片づけられもしなかった建材の残り。あとはこの場所を間借りした宿無しが残していった生活のゴミ。
壁の向こうから発情期の猫のような声が、響いている。
廃墟には妙に生活感の溢れたスペースがあった。椅子と机。わずかばかりの日用雑貨。壁に掛けられた乾いた血のように暗い色をしたジャケット。
コンクリートの上に直に置いたマットレスの上で、上着を毛布の代わりにして上裸の男が寝ていた。夜通し壁の向こうから聞こえていた騒音は、男の眠りを妨げなかったらしい。
枕元に置いたスマホのアラームが目覚まし音を告げ、寝返りをうつ。腕と首に入った刺青が目を引いた。首に黒く蓮の花が咲き、手首から肩にかけて幾何学模様が入っている。
松永 帰泉という名前の東洋人だ。
一度はアラームを無視し二度寝に入るような素振りを見せたが、おもむろに目を覚ました。カーテンなどない窓から差しこむ太陽の明るさに目をしばたき、逃れるようにうつ伏せになる。背中を丸めて蹲るような格好になってから、重たい頭を無理やり引き上げる。
体を起こしはしたものの、まだ目を開けるつもりがない松永が立ち上がるまでにはたっぷり五分掛かり、スヌーズ機能でもう一度アラームが鳴った。
深々とため息をつき、アラームを止めるとマットレスから降りる。もともと水場があったらしい場所に向かい、壁の中の配管の元栓をひねった。蛇口の付いていない水道管の先からドバドバと水が溢れてバケツに溜まる。
赤錆の浮いた配管の水は飲めたものではなく、しかし髪を整えるにはその鉄臭い水で十分だった。髪を後ろになでつけると実年齢よりも幼く見えがちの東洋人の顔は、ようやく年相応になった。
マットレスの脇に置いてあったミネラルウォーターのペットボトルを手に取り、外したキャップは不要と投げ捨てた。
水を飲み、ゴミ捨て場から拾ってきたボロい椅子に腰掛ける。鞄の中から固形の携帯食料を取り出し、口の中の水分を根こそぎ奪うそれを水で流しこむ。空き箱を握り潰して捨てると、性急な食事とは対照的に余裕を持った動作で、煙草に火をつけた。
画像フォルダを開き、最新の写真四枚を順番に眺めながら数え歌を口ずさむ。
Eenie, meenie, miney, moe,
Catch a tiger by the toe,
歌に合わせて左に流れていく男女。全員が十代後半から二十代前半。全員が同じ椅子に座り、体を拘束されている。
If he hollers let him go,
Eenie, meenie, miney, moe.
歌の終わりに、ぴたりと指の動きが止まる。
にこりと笑い、椅子を立つ。
壁から飛び出した釘に引っ掛けてあるハンガーからジャケットをとって着替える。それはどう考えてもサイズがあっていなかった。だが気にした様子はなく煙草を咥えたまま両手を組んで、大きく伸びをする。その動きに合わせて背丈がぐいと伸びた。同時に黒髪が消え、つるりと毛のない頭が現れる。
刺青の代わりに首には横に赤く走る引き連れた傷跡。
そうしていつの間にか体が服にぴったりのサイズになっていた。
殺風景な部屋を後にして廊下に出る。ドアなどろくに残っていない放棄された建物の中で、後から増設したのだと一目で分かる妙に小ぎれいな扉が四つ並んでいた。
中からは朝からずっと聞こえていた。発情期の猫のような、必死で悲痛で堪え難い声が聞こえている。
ドアをノックする。叫び声が止んだ。鍵を外し、ドアを開く。
部屋の真ん中に椅子が一つ。写真と同じ格好をしたしかし写真の中よりも憔悴した女が、怯えた目で入ってきた松永を見る。
「あんた、何が目的。何がしたいの」
その声は一晩中叫び続け、声がすっかり枯れて潰れていた。
返事はない。松永が姿を借りているこの男は口がきけないのだ。
無言のまま、ドア脇に置いてあったレコードプレイヤーの電源を入れる。黒い円盤がくるくると回り出した。
椅子に縛られた女の体がびくりと震える。
松永は指で持ち上げた針を、ゆっくりとレコードの上に滑らせた。
情動を引きずりこむようなピアノの旋律が鳴る。
「もう、やめて。なんで、なんでこんなことするの」
泣きそうな声で女が言う。何十回何百回と繰り返される旋律。それと共に刻みこまれる痛みの記憶。
メロディーが軽やかになるにつれて焦燥が募る。
擦り切れたレコードが時折混ぜるノイズが、心の不安定を増す。そうやって揺らいだ精神を思うままに作り変えて、依頼人のオーダーの通りに躾け直す。
何もかも、はっきりと覚えている。
調教師の手管。使った道具。
いくら問いかけても返事のない温度のない顔。
こちらばかりが焦燥を募らせ、動揺するほどに相手の術中にはまる。
コンクリートのシンプルな一室には、あのときの全てが再現してあった。
唯一の違いは、椅子に座ってるのが松永ではないという点だけ。
「何が目的?」
求められたことは、多くない。
松永は、メモを差し出した。手話の読めない相手に対して、情報伝達の手段はそれしかなかったからだ。タイポグラフィーのようにボールペンできっちりと写し取られた活字が、彼の特徴だった。
『求められるままに、従順に鳴け』
それが最初のオーダーだった。
松永の飼い主だったマフィアが必要としたのは、従順な女だった。決して飼い主に逆らわない。噛みつかない。言われたままにベッドの上で鳴く雌犬。
調教師は、雇用主の望みを叶えた。何度も何度も体に教えこまれた。
恐怖と痛み。無条件の降伏。体を暴かれる屈辱すらも飲みこみ、人としての尊厳を投げだした。
あれ以来、このピアノの旋律が聞こえるたびに、体が動かなくなる。メモを持つ手が震えていた。椅子に座る相手の目に映らないように後ろ側に回りこんだ。
捕まえてきた人間は四人。必要であればもっと。
(心配しなくても逃がしてやるよ)
不注意を装って、解放する。自らの手で自由を獲得したように見せかける。
そのときに彼らはどうするだろう。
忌まわしい記憶に蓋をして、大人しく生きるか。怯えて安全な場所に逃げ出すか。
いや、己の心を、魂を、体を、めちゃくちゃにした男を許せないはずだ。
知らぬ顔で暮らそうとしても、目の前にあの男がいたら冷静ではいられない。
松永がそうであったように。
忌まわしい過去を封じたいと思いながら、調教師の顔を頭の中から追い出すことができない。いまだに月光の美しい旋律に腕が痺れて動かなくなる。幻の痛みが体を駆け抜ける。
過去が松永を捕らえ、縛りつけている。消すにはあの男を消し去るより他はない。他の要素は全て処分した。残るは調教師だけなのだ。
松永が作っているのは、過去の亡霊。恨みの複製品。
調教師はどうしてこいつらに恨みを抱かれ殺意を向けられるのか、わからないままだろう。見えない過去の亡霊に、殺されるがいい。
駒が揃えばゲームが始まる。
(楽しみだなぁ、調教師)
松永は唇を歪めて、笑った。
食堂よりも足繁く通うノーデンス喫煙所に於いて、居合わせるメンバーというのはだいたい決まっている。入院中でも煙草を我慢できないのに、頻繁に負傷をする迂闊なやつ。
売店も薬局も食堂も閉まった深夜の時間帯ともなれば、尚更に利用者は限られる。無人の二階フロアに、エレベーターの到着を知らせる音が響き渡り、松永が開いたドアから降りてきた。
夜の病院。ホラー映画でも始まりそうなシーンだったが、通い慣れた日常の一部となってしまうともはやぞくりともしない。
廊下に漂ってくる安煙草の匂い。それを嗅いで喫煙所に誰がいるのか顔を見ずともわかった。
広い背中を少し丸めて、灰皿を眺めている。
眠気に襲われ何も考えていないように見えるが、彼が深夜に喫煙所で煙草をふかしているのは、たいてい考えすぎているときだ。
「あいかわらず安煙草とお友達のようで」
ぴくりと指先が反応し、ジンジャーの目がこちらを向いた。仕事で生傷が絶えないから、見かける機会は他の二人と比べて多い。他があまりコミュニケーションに積極的でないタイプというのもあり、松永にしてみればもっとも話しやすい相手である。
「近頃、よく会いますね」
眼鏡の向こうの顔色は読めない。
実のところ松永は近頃、入院するような怪我も病気もしていない。会員資格があれば、部屋は常にあるからホテルとしても利用できる。そうする必要がないからしてこなかっただけだ。
駒の仕込みが終わった。あとは、どこに配置するのかという問題だけだ。情報を引き出すのなら、三人の中でジンジャーが最も付けこみやすいだろうという打算があって、あえて会う機会を増やしていた。喋れない男と主体性の薄い女から情報を引きずり出すのは、きっと骨が折れるだろう。
ジンジャーとて決して口数が多い男ではないが、だからこそ咄嗟に発言を偽れない世慣れなさが残っている。
「僕からも、仕事を受けてもらえるのかな」
彼は松永と会話をする予定が全くなかったらしい。沈んでいた意識を起動するまでに、しばらく時間を要した。
そうして沈黙のあと言われたことを噛み砕けば、今度は発言の内容に戸惑ったらしい。眉を八の字にしてようやくしっかりと松永の顔を見た。
「内容によりますが、話は聞けるかと思います。ただ、決めるのは俺ではないので」
夜間であることをはばかるようであり、しばらく人と話すことを忘れていたようでもある。わずかに擦れるぼそぼそとした声だった。
チームで話し合って決めるのか、それともリーダー格の男に最終決定権があるのかどちらかだろう。それは想定の範囲だ。
「あなたが加わる前は、いったい誰が交渉を?」
調教師は、かなり以前から喉を潰していた。当時から依頼を受けて、仕事していたはずだ。クロックワークキッチンの来歴は知らないが、ブリュレの年齢やジンジャーのスラムに馴染まない態度などを考えると、始めから三人でいたとは考えにくい。いつどの順番で運転手と護衛が加わったのか知らないが、まさか当時は全て筆談でこなしていたとでもいうのか。
「……さあ、俺の入る前のことは、ちょっと」
頭が働いていないだけだったさっきの沈黙とは、随分と密度が違う。それに警戒の手触り。
ああ、やっぱりこの人が一番可愛げがある。
煙草を口元にやる手の下に、笑みを隠した。
そうして松永はクロックワークキッチンの事務所を訪れていた。
対面にはジンジャーがいる。飼い主から長く放置されて鬱病になったゴールデンレトリバーのような男は、人との距離感の正誤を判断しかねるように、少し眉根に力が入る。困惑の度合いによって微妙に眉間の皺の深さが変わり、口に出す以上に内心で多く考えすぎている様を見物するのは、楽しいから嫌いではなかった。
生真面目すぎて冗談を流せない。己を繕って自衛することを知らない。感情を全く顔に出さないよりもよほど素直で可愛げがあるし、人畜無害なところもいい。
無害という点ではもう一人の運び屋も同じで、からかい甲斐はないが不平不満を述べない従順なところがいい。
つまり松永 帰泉という男にとって、クロックワークキッチンという組織は、ただそこに調教師がいるという一点を除けば、概ね好印象なのだ。
無自覚か自覚的なのかわからないままに不都合な過去を握りしめている男は、必ず殺す。しかし、その後の身の安全や秘密の保持を考えると、この組織と表立って敵対するのは避けたかった。
仄暗い因縁があると気づけば必ずそれを掘り返そうとする奴が出てくる。この街で情報は金になる。秘密を秘密のままで葬ってもらえるような街ではない。
松永が手を下したと露見しない形で、用意した手駒に殺させる。手駒は死んだところで痛みはなく、繋がりも辿れはしない連中だ。ジンジャーやブリュレが復讐の望むのであれば、殺させてやればいい。だが、邪魔をされることだけが心配だった。
手駒は無作為に選んだ人間たち。強いていうなら、数日行方不明になったところで誰も探さないような生活態度の連中であること以外に共通点のない男女。それゆえに殺しのプロというわけではない。ジンジャーのようなプロの護衛が傍についていれば必ず止められる。
調教師一人と手駒が遭遇する状況を作るなら、仕事として呼び出すというのが一番早い。
だから松永は彼らの事務所を訪れた。依頼人も依頼も用意してある。
ソファーの対面に、クロックワークキッチンの三人が座っている。
何を考えているのかわからない顔でこちらをじっと見つめてくる調教師と。極力目を合わせないように努めた。
依頼の内容はいたってシンプル。尋問官として、調教師を借り受けたいというそれだけのものだ。危険度が高いものではない。不自然に高額ではないが、旨味をなくさないほどほどの報酬。
手頃な依頼のはずだ。
話を聞き終わった調教師が指を動かす前に、視線を足元に落とす。新しい煙草を取り出すふりをして、自分の手元だけを注視する。
機械を人に寄せようという何世紀も前から行われてきた人類の努力を無に帰すように、この男は効率を重要視した結果、機械の側に歩み寄っている。意思の疎通を図りたいなどと思ったことはないし、今でもその手つきを見ると過去の傷が痛む。しかし単純にあらゆるコミュニケーションでジンジャーを介さなければいけないのは、不便だった。
手話でも覚えるかと思いながら視線を金髪の、こちらはこちらで人と目を合わせようとしない男に向けた。ジンジャーは手話を読み取り、言葉に直す。
「話は、わかりました。受けるかどうかは、後日連絡します」
なぜ、と問い詰めたくなるのを飲みこんだ。そこで言い募るのは、断られては困る事情があると言っているようなものだ。だが問いたくなるのは事実だった。
ジンジャーに病院で声を掛けて場所と時を改めたいと言われたのは、まだ納得ができる。ノーデンスの中立性を保ちたいならあそこで取引を行うべきではないし、まともに喋るから交渉役をしているだけで内気な男が決定権を握っているわけではないだろう。三人の中でリーダー格は調教師という漠然とした理解がある。
それを踏まえて直接話をしにきた。さして難しくもない内容、なぜ先延ばしにする必要がある。
熟考に、こちらがとやかく口を出す筋合いはない。三人だけのチームだ。今受けている仕事量。得手不得手。相手に対する信用。考えることは山ほどあるだろう。
だが企み事をしているという後ろ暗さがあるせいで、些細なことに過敏になる。
「調教師の助けが得られないなら他を当たらないといけない。なるべく早く返答いただけると助かりますね」
何げない風を装って嘯き、松永は事務所を後にした。
別のアプローチを考え始めなければいけないかもしれない。
生活の必要を度外視して鍛え上げられた若い肉体は、現代に於いて最も贅沢な娯楽の一つだ。ボール遊びに興じる犬が如く、球を追いかけて男たちがフィールドを右に左に走る。
松永にはスポーツの意義というのがまるで理解できない。スポーツマンシップなどという謎の概念は況んやである。それは感動と娯楽を売り物にするパフォーマーの一種と考えた方が、まだ受け入れやすい。
「ジーマ、もしかしてお前、ジーマか」
旧友との久しぶりの再会。というニュアンスを感じる声だった。
周りを見回してみても、自分以外に人はいない。声のしたほうに視線を流すと、見知らぬ男がいた。
知らなくて当然だ。僕はジーマではないのだから。
松永 帰泉は声をかけてきた男をよくよく観察した。着古したシャツに底の擦り切れた靴。カメラ。胸ポケットには使い古した手帳。小指の横にインクの染みが黒く残っている。日焼けしているが、腕時計の下やシャツの内側は、色が白い。常に片方の肩に大荷物を背負っているらしきバランスの崩れた体。
記者か。
場所を合わせて考えるなら、スポーツ記者。
松永は今、ジンジャーの外見を借りていた。正確にはその外見に少々アレンジを加えた姿だ。
髪を短くし、目元を隠す前髪を上げて眼鏡を外す。服装はもう少しラフに。
その姿を本人の前で見せたのは、全く偶然だった。そうした方がジンジャーという男の素材を生かし切れる。有り体に言えば、女にモテると思ったからだ。口で説明するより、見せた方が早いと思って異能を使った。
そのときの彼の顔。虚をつかれた一瞬に浮かぶ、むき出しの感情。慌てて繕った顔に浮かぶ眉間の皺。痛みに耐えるように引き結ばれた口の、口角を無理矢理あげて社交的な笑いを見せた。
松永が見せた姿に思うところがあったのは間違いない。彼の過去に纏わる何かにこの姿が引っ掛かったのだ。ジンジャーという男の過去を掘り返して、彼を訶みたいわけではない。そんなことをしても、面白いだけだ。だがクロックワークキッチンについて、公にされていない事柄を探り調教師の弱点を探すのなら、あの三人の中で彼が一番掘りやすいのだから仕方がない。
スポーツマンだったというのは体格から分かる。軍人ともまた違う鍛え方だ。スラムでスポーツに興じるような生活の贅沢を持っている人間は少ない。テレビで娯楽として楽しむか、賭けの対象になるくらいだ。
あの性格や小綺麗な顔立ち、歯並びの良さや訛りのない英語などから考えるに、富裕層の出身。だからジンジャーの姿を借りて運動競技場に出入りをしていたのだ。かつてのチームメイトあるいはコーチ、マスコミ関係者、誰でもいい。覚えていれば、声をかけてくる。
なぜならジンジャーは今、ポートタウンのスラムにいて、ノーデンスの利用者だ。表社会からは何かしらの理由で姿を消しているはずだ。死亡者扱いか、あるいは行方不明。見知らぬ人間から声をかけられたのは、予想通りの展開だった。
「わからないか。無理もないよな、俺も今ではこんなだ。おんなじチームだっただろ、覚えてないか」
同じチーム。やはりスポーツ選手か。ジーマという名前。競技がわかればもう少し探しやすいんだが。
男はジーマと呼んだ男の足元で踏み潰された大量の吸い殻を見て、眉をひそめた。
「ああ、申し訳ない」
なるべくジンジャーらしい顔に寄せたはずだが、男はお前雰囲気変わったな、とコメントした。どうやら、彼の知るジーマという男は松永の知るジンジャーという男のパーソナリティが当てはまらないらしい。
「コーチのところに、挨拶に行きたいんだ。連絡先、知っているか?」
全く素直で助かるよ。
二つ返事で情報を明け渡してくれる男に、松永は微笑みかけた。
