箱に秘めたる払暁の刃

1,剣士と海賊 その1

 ひどく退屈な旅だった。旅程の半分を過ぎたあたりで、慰めにヤギを連れ込む船乗りの噂話も、あながち冗談ではないのかもしれないと思えるほどだった。
 船室を抜け出し、夜風に当たるために甲板に上がる。
 男の名はスティルチ・トゥラーレといった。護衛として雇われ、旅に同行している。
 船に乗るまでは乗組員の身元など散々に気を遣ったが、出航してしまえば剣で戦う人間にできることは多くない。
 しばらく夜毎行われる酒宴で退屈をしのいだが、話すほどに彼らと“聖痕者”スティグマータの世界の遠さを感じてしまう。
 聖痕。それは闇の鎖に砕かれたアルカナの欠片、光の使徒の力であるという。
 この世界の成り立ちまで遡る神話の話だ。余人にあらざる力と奇跡を与える代わりに、人生を平穏とは程遠いものにしてしまう。
 市井の民は、信仰や知識としてアルカナの耳にしたことはあっても、その加護や奇跡を身をもって知ることなどない。
 “聖痕者”の存在は、神話や御伽噺や英雄譚と同列だった。
 余計な勘ぐりを避ける煩わしさも相まって、一人で夜風に当たっている方がよほど気が楽だった。
 旅程は概ね順調。
 今晩は、月が昇ったあたりから立ち始めた夜霧が、視界を閉ざしていた。
 月齢も読み取れないほどに輪郭が薄れた光が、天にぽっかりと浮かんでいる。月が出ているのだから、きっと今日は晴天なのだろう。
 目が慣れれば、朧月でも十分な光源になった。夜の海を見渡しても、乳白色に烟るばかりで何も見えない。
 嫌な夜だ。静かすぎる。
 岸から遠いので、海鳥の姿はない。船が軋む音、波をかき分ける音、遠く隔たって聞こえる酒宴。いつもと変わらないはずなのに、妙に肌がざわつく。
 ふと、霧の向こうに明かりを見た。
 見張り台をふり仰ぐが、そこにいるはずの男は無反応だ。あっちは遠眼鏡も持っているし、霧の濃度も薄いから、甲板よりも見晴らしがいい。何かあったのなら、真っ先にあの男が気づくだろう。
 目を凝らしても、乳白色の幕に覆われた夜の帳の先には何もない。
 なら今しがた目にした光は鬼火イグニス・ファトゥスだったのか。
 馬鹿らしい、と首を振る。船乗りの怪談話を信じるほど純真ではない。
 恨みによって人を海に引きずり込むような魔性の存在に、心当たりがないでもなかったが、それは船乗りが信じる迷信とは全く別種だ。
 気味の悪い夜だ、と甲板にいる誰かが独り言つのが聞こえた。
 霧の向こう、忍び寄る追跡者に気づくものは、まだ誰もいない。

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