陽を追う犬は、夜陰を駆ける

第9話 その名は”太陽の歌”

 耳障りな騒音で、静寂の世界から引き戻された。
 全身の痛みで、まだ死んでいないことを悟る。死んだならもっと楽になっていいはずだ。
 痛みも乾きも苦しみも、なに一つ無くなっていない。
 ベッドからは汗と海の匂いがする。枕元には荷物がまとめて置いてあった。奪われたものは、一つもないらしい。
 最近ずっとまともな目覚めとは無縁だったが、今日はとりわけ酷い。
 世界そのものがゆっくりとグラグラ左右に揺れている。
 ショロトルを叩き起こした酷い騒音の原因は、部屋の真ん中にあった。
 テーブルと床の上に、足の踏み場がないほどに酒瓶が転がっている。部屋の酒臭さに気づいて、袖で口を覆った。酒瓶の中心で黒いトライコーンを顔に被せた男が、椅子の上にひっくり返って寝ていた。
 酷いいびきだ。
 その腰にサーベルがあるのを見て、荷物の中からナイフを取り出して服と枕の下に隠した。
 気配を察知したようにいびきがピタリと止み、ショロトルも動きを止めた。
 トライコーンを頭まで押し戻し、男は起き上がった。
「気がついたか。起き上がれるか?」
 寝たふりは無駄らしい。
 男がベッドに腰をかけ助け起こそうとするそぶりを見せたので、とっとと体を起こした。
 まだ、世界が揺れている感じがする。
 男は口を開こうとしたショロトルを遮って、水筒を差し出した。
「質問攻めは後にして、まずはこれでも飲め」
 蓋を外して匂いを嗅ぐ。酒ではなさそうだったが、無臭ではない。植物の匂いがするのが、気に入らない。
「気になっているだろうから、先に教えてやる。俺はレクター・ワードック。そしてここは俺の船ソラルヤーダだ。お前は波の間にぷかぷか浮かんでるところを、うちの乗組員に拾われた。で、警戒しているそれはうちの船医が作った薬湯だ。飲んでも死なない。で、お前の名前は?」
「……」
 質問には答えなかった。まだ名を明かす気にはなれない。
 ここは船の上か。この揺れは熱で脳みそが茹だってるわけじゃなかったわけだ。なら思ったより体は大丈夫そうだ。
 仕方がなく薬湯とやらに口をつける。疑いを解いたわけではないが、寝ている間に殺さずにわざわざ毒を飲ませる意図がわからない。
 問題は、この男が指名手配犯についての情報を知っているか否か、だ。知っていればこの後、兵士に突き出されるかもしれない。知らなくても、今から港に着くのなら、耳に入る可能性は十分にある。
「この船は、どこの港から出航した? 何日ほど経ってるんだ」
「くだらない探りをいれるのはやめろ。お前が手配されているのは港を出る前に聞いた」
 知られていた。その上で、助けたというのか。
 どういうつもりだ。賞金目当てか。それとも脅していうことを聞かせるつもりか。
 いずれにしろ大人しく捕まっているわけにはいかない。
 今ここで殺すか。それとも脅して、逃げるか。
 そっとナイフに手を伸ばす。
 鞘走りの音がした。視界を金属の反射光がかすめる。
 首筋にサーベルの刃があった。切先は寸分違わず、首の動脈に添えられている。
「そいつでどうする。俺を殺したところで、他の連中が黙っちゃいない。全員殺したところで、一人じゃ陸には戻れない。海の上で干物になりたくなかったら、暴れるのはあとにしときな」
 ことごとく、考えを先回りされている。
 ショロトルはゆっくりとナイフから手を離す。両手を上げてこれ以上は抵抗をしないことを示すと、彼もサーベルを鞘に納めた。
「知っているなら、なんで助けた」
「目の前で死にかけてる子供を助けるのに、理由なんていらんさ」
「子供扱いするな。余計なお世話だ」
「傷にさわるぞ。あまり吠えるな」
「治療してくれたことに対しては、礼をいう。だが、それ以上は」
「治したのは船医だ、阿呆。俺にそんな器用な真似ができるか。逃げ場はないし、即座に命の危険もない。時が来るまでは体力を温存して相手を伺っていればいい。お前が子供じゃないってんなら、それくらいの冷静な判断はできるだろう。どうしてそんなに喧嘩腰になる必要がある?」
 ショロトルは黙って相手を睨みつけた。
 悔しいがやつの言い分を否定する言葉が出てこない。実際、目の前の男を拒否するのに、理性的な理由があるわけではない。
 動物的な本能が、目の前の男に警鐘を鳴らしていた。この男は、きっと俺より強い。
 得体の知れない相手の手中に大人しく収まっているなんて冗談じゃない。他の船員を人質にするか、海に飛び込むかどちらでもいい。この底知れない男に命を預けているなんて、ごめんだ。
「外に出たい。ここは酒臭すぎる」
 男はひょいと片眉を上げた。
 言葉に裏があることを感じ取ったように見えたが、あえて追求するようなことはしなかった。優位を信じて疑わないからこその余裕だろう。その態度が神経を逆なでした。
 だが立ち上がろうとした途端、足から力が抜けた。
 男があらかじめ用意されていた動作で体を支えた。サーベルを抜いた時と同じくその動きは素早くて隙がない。
 血が足りない。刺された傷が真新しい痛みを訴え、ショロトルは呻いた。支えられなければ立つことすらままならない。情けなさに歯を食いしばった。
 少年に刺され崖から落ちた時、確かにもうこれで死んでもいいと思った。それなのに、まだ足掻いている。
 何度も悪夢にうなされて目がさめる。家族を失った苦しみも過去の絶望もいつまでたっても乗り越えられない。弱い自分の全てを諦めて捨ててしまいたかった。
 嘘じゃない。苦しいのも諦めたいのも嘘ではない。それなのに、俺はこんなにも生きたがってしまっている。己の命が人に握られるのを、恐れている。
「転び方もわからない子供が、無理に一人で立とうとするな」
 その声は穏やかで、体を慮っているようにも生き方を諫められているようにも取れた。
 レクターの言う通りだった。
 どんなに足掻いたところで、今の俺にはなにもできない。立ち上がることすらままならない己の体をみて、ようやく諦めがついた。
 肩を貸されながら、ゆっくりと船室の外に出る。
 寝かされていたのは船長室で、外に出ればす船全体を見渡すことができた。
 扉が開いた途端に、濃い潮風が吹き付けてショロトルはよろめいた。
 寝起きに見る太陽の光は、目が痛くなるほど眩い。
 抜けるような空の青色と対照的に海の色は深い。帆が風を受けていっぱいに膨らんでいる。
 生まれて初めて、海にでた。
 それは四檣バーク型と呼ばれるタイプ帆船だった。船に乗ったことのないショロトルには、その巨大な構造物が水に浮き、動いていることが何かの冗談のように思われた。
 帆もそれを立てるマストも、一つ一つが途方もなく大きい。幾何学模様のように張り巡らされたロープには、全てに意味があるのだろうが、どれがどこに繋がっているのかを目で辿ることすら難しかった。
 間近で目にした帆船の何もかもが、ショロトルを圧倒した。
 その瞬間は、腹の底に抱いていた感情の何もかもが吹き飛び、ただ目の前のものに感嘆していた。
「いい船だろう」
 隣に立った男が、嬉しそうにいう。
「海に出るのは初めてか。お前、どっから来たんだ?」
「陸から」
 意地を張ったわけではない。そうとしか答えようがなかった。幼い時に生まれた場所が地図から消え、以来ひとところにとどまっていたことはない。ストレリチアの家の名に縋ってはいるが、全ては遠い記憶の彼方だ。しつこく夢に見るくせに、もはやその場所が地図上のどこであったと答えることすら難しい。
「陸からか、そいつはいい」
 レクターは豪快に笑った。その声を聞きつけて、甲板にいた船員がレクターに気づきなんとも嬉しそうな顔をした。
「小僧の目が覚めたんですか、ようやくベッドで寝れますね」
「そいつも船に加わるんですかい?」
「親父、猫拾うみたいに何でもかんでも拾い上げてくるのは、悪い癖ですぜ!」
 口々に勝手なことを言う。レクターは一つ一つに、嵐の日でも届くであろう大声で返事をした。その親しげなやりとりだけで、男がいかに船員から慕われている理解できた。
「あんた、ペットが欲しかったのか」
「ただの飼い猫なら欲しくもねぇ。港についたらとっとと野良に戻ればいい。この風なら数日で次の港だ。短い付き合いになりそうだが、陸から来たもの同士よろしく頼む。くれぐれもおとなしくしていろよ」
 レクターはショロトルを支える手を離すと、手をひらりを振って甲板に降りていった。
 もう船の揺れにも慣れ、手すりにつかまっていれば、立つだけならなんとか一人でもできた。
「なあ、あんた。いや、レクター船長」
 階段を降りようとしていたレクターを呼び止める。これ以上みっともない姿をさらしてたまるかと、手すりを握る両手に力を込めて、倒れそうになるのを堪えた。
「飼い猫以上になれるっていったら、あんたどうする?」
 レクターが驚いたようにショロトルの顔を見返し、それが冗談でないことを見てとると眼光を鋭くした。
「ほう、面白いな。お前が、何になれるって言うんだ」
「俺は今は滅びた家の影。ストレリチア家の存在しない筈の息子。家を守るために鍛えられ、抜かれることのなかった剣だ。望むなら、あんたの剣になる。俺をこの船に乗せてくれ」
「悪いが武器は足りている。ソラルヤーダのクルーになりたいなら、それ以上の何かになって俺を納得させてみせろ。全てはお前次第だ」
「役に立ってみせる。港に着くまで時間をくれ」
「馬鹿野郎。怪我人は大人しく寝てりゃいんだよ。名前すら知らないうちから判断はしないさ、ストレリチア家の息子さんよ」
 ショロトルは、まだこの男に名乗ってもいなかったことに気がついた。
「ショロトル。ショロトル・ストレリチアだ」
 今までの無礼な態度を考えれば、拒否されても不思議ではないと思った。
 しかしレクターはニヤリと笑い、わざわざ引き返して握手を求めてきた。その顔には挑戦的な、優者の笑みが浮かんでいる。目の奥がイタズラを企む悪童のように光っていた。
「改めて、俺はレクター・ワードックだ。ようこそ、俺の船へ」
 ショロトルは、差し出された手を握り返した。

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