どうして。
俺がみんなを守らねばならないのに。
焦げた皮膚がひび割れて血が流れる。布で手に固定していたナイフの柄が、熱を孕んで手のひらを焼く。大切な人を守るために与えられたナイフ。
勢いを増す炎の熱と煙で喉が焼ける。息をするのもままならず、体に力が入らない。
動け、動けよ。
震える腕に力を込めて、床を這いずって進む。
声が出ない。
助けを呼ばねばならないのに。
腫れた喉からは、ひゅうひゅうと壊れた笛のような音がもれるだけだ。
窓ガラスが割れる音がして、炎が勢いを増す。
頼む。誰か、来てくれ。
(ああ、これは夢だ)
事の顛末を知っているショロトルは、声をあげたところで誰も来てはくれないことを知っていた。
この屋敷の中にも外にも助けなどない。もはやここには誰もいない。
これは既に起こったことで、終わってしまったこと。覆すことはできない。
その先には、喪失の痛みしかない。生きている限りずっと続くと思っていた道が突然途切れ、闇になる。
ならばこの瞬間で時を止めたい。永劫焼かれて苦しむことになっても、その方が幸せだ。これ以上は見たくない。
どんなに強く願っても、記憶の中の自分が立ち止まることはない。
夢の中の少年は痛みと熱に喘ぎながら進み、あの絶望を味わいながら生き残る。
心の中でやめろと叫ぶ。その扉を開けてはいけない。
なぜ気づかない。
誰の姿もなく、誰の声もしない。廊下に残る何かを引きずった血の跡。
進むにつれて濃くなる、髪の毛の燃えるようなひどい臭い。惨劇の跡を残しながらも死体一つない屋敷。半開きの扉は、鍵が壊れている。
倒れこむように扉を押しあける。焼けただれた手の平が、戸板にべったりと血の跡を残した。
「やめろ!」
振り払った手が空を切った。全身が汗でべったりと濡れている。額に張り付いた前髪を払う。
窓の外には雲に遮られたぼんやりとした太陽がある。肌寒さを感じることこそあれど、汗をかくような陽気ではない。
また飽きもせずに同じ夢を見た。
北狄の侵攻から遠い故郷は、近くで起こった争いの火種に驚くほど不用心だった。よその土地の災いだと思っていた戦火はあっという間に燃え広がり、戦いというにはあまりに一方的な破壊と略奪が襲った。
生き残ることができたのは、人ならざる力を得ていたショロトルただ一人。神の力の一端である聖痕が、惨劇を生き残る縁になった。屋敷に火が掛けられた時、すでに他の生存者など居はしなかったのだ。
扉に残った自分の血まみれの手の平の跡が、呪いのように記憶の底に張り付いている。幻影を振り払うように、頭を強く振った。
汗で体が冷えるのを感じ、湯を借りるため上着を羽織って階下に降りた。
人前に出る前に髪を全て左に流す。聖痕を体に宿すものは、刻まれし者と呼ばれる。三つの聖痕のうち一つが左の側頭部にあった。
神より与えられた恩恵と奇跡の存在は、世人にとっておとぎ話の存在でしかない。加護でもあるが、運命を縛る重き鎖でもある。余計なトラブルを避けたいのなら、人に知られないに越したことはない。
ショロトルが持つそれは、死神の加護であり命を摘み取るものの証なのだから、なおのこと進んで明らかにしたいものではなかった。
服を脱げば左胸の心臓の位置と、服の下に隠した首飾りにも見ることができる。どういう原理か知らないが、首飾りを外せば聖痕も移動する。大抵は生家から持ち出した品である首飾りか、ナイフに浮かんでいた。
汗を流し服を替えると、部屋に戻り手早く荷物をまとめた。
宿を出る背中に、カウンターの向こうから声がかかる。
「よぉ、飯は食ってかないのかい?」
「懐が寒くてね。金回りが良くなったらお願いしよう」
「そら、次に来る時が楽しみだな」
全く楽しみにしていない口ぶりだったが、口先だけの話をしているのはこちらも同じことだ。