【神の領域】

5,神在月の会合

 母親がいつも買い物に使っているママチャリ。
 ペダルを踏み込むたびに、籠の中でペットボトルとスナック菓子の袋がはねた。
 十月の寒い日、風が冷たかった。
 意地でも止まらない。止まったら再起不能。緩やかだけど長い坂道。街頭の下を通り過ぎる時だけ視界が晴れる。次の街頭までは、がんばる。そう思いながら上っていく。
 外気の冷たさが肺を焼く。体が熱いのに手足が冷たかった。
 立ちこぎでも辛いのに、籠の荷物が重たくてふらふらする。ズボンのポケットで携帯が震えたのを口実に、一気に上りきるという目標は諦めた。手袋を取って手を擦り合わせ、頬に当てて温める。
 冷たい指だった。
 かじかんで上手く動いてくれないので、両手で携帯を操作してメールを確認する。遅れる連絡か、催促か、どっちかだろう。
 メールボックスには特に読む気もしないメルマガが溜まっていた。後はいかがわしい感じの迷惑メール。男友達の名前を見つけた。タイトルは、悪い+ごめんという絵文字。いや、頭下げられてもね。
 嫌な予感はしていた。そりゃ、このタイトルじゃな。
 坂の中ほど、片足をついてその場に立ち止まっていた俺は、再び自転車を漕ぎ出す気力はなかった。自転車をおりて、坂を登り始める。特に目新しさはないお菓子に炭酸。女の子がダイエット中でも大丈夫な、万人受けするお茶。全部一人で飲めってか。
 急用ができて、全員来れないといわれた。
 どんな急用ができたら、全員一度に来れなくなるんだ。
 今頃みんなカラオケボックスで大騒ぎしているんだ。
 なんにせよ、今ここでこうして寒い道を一人で歩いている俺は変わらない。帰りたい。いま帰ってるんだけど、今すぐ家に入りたい。寝たい。
 ここに座り込んで、なんか偶然通りかかった仕事帰りの親父とかに乗せてってもらいたい。そんな偶然が起こることを期待しながら坂を登る。絶対にそんな偶然起こらないのは頭の隅では理解している。
 傘を忘れた雨の日の放課後を思い出した。
「暗いですね」
 出し抜けに後ろから声を掛けられて、俺は思わず自転車を放した。重力に引かれて重たい籠が俺と反対側に傾く。それを捕らえようとした俺も引っ張られ、気がついた時には派手に転んでいた。転がっていったペットボトルを俺に声を掛けた人が追いかけていた。
 ペダルに足を引っかかれてすごく痛い。自転車にダイブするのはお勧めできない。
 誰も助けおこしてくれないから、自分で起きた。ペットボトルが手渡される。よりによって炭酸だった。これは爆発するにちがいない。多分、お菓子も大分潰れた。
 ごめんの一言もない、ムカつく奴の顔を拝んでやろうと思っていた俺は、相手が年上の女性なのをみて思いなおした。夏は暑そうで冬は寒そうな和服を着ていた。羽織の襟を引き寄せてニッコリと微笑まれると、どきどきした。
 初詣には早い。まだ十月だ。
「気をつけてくださいね。この辺り本当に暗いですから」
「ああ、はい」
 どぎまぎしながら、頷いた。そっちの“暗い”だったことにやっと気付いて、恥かしかった。俺はてっきり・・・。
「あそこの神社までいって休みませんか? 怪我をしてるみたい」
 どこにでもいそうな見た目で、年は多分二十歳そこそこ。その割には雰囲気がちょっと世間ずれしていて、戸惑わされた。
 彼女の視線の先を辿って足を見ると、確かにズボンに染みができていた。服が破れてないから、そこまで大きな怪我じゃない。
 しかし女の子に誘われて、ちょっと下心出すくらい許されていいだろう。俺は言われるままに神社を目指した。初対面の筈だ。それでいきなり声をかけてきて、このシチュエーション。脈ありと判断した俺はいたって普通。
 石段に腰掛けて、ジャージを捲る。サドルが脛にぶつかったときにやったらしい。見た目が結構痛そうだったから、俺は目を逸らした。
「ああ、これは絆創膏って訳にはいかなさそうですね」
 服に染みるくらいの出血をしている時点で俺はわかったけどな。
 ちょっと変な人に俺は心の中で突っ込みを入れた。のんびりとした口調だしこれは天然というやつだろうか。
「ごめんなさい。いきなり声かけたからですよね」
「え、ああいや。俺もぼーっとしてたし、疲れてたし」
 何にせよ、早く家に帰ろう。迎えを呼ぼうとしたが、既にビールでも飲んでいるに違いないと思い返した。最近は飲酒運転の規制が厳しい。
 何度かした事がある程度の怪我だったし、歩けないほどでもなかった。ただ、女性はやっぱり気になるようだった。
「自転車代わりに押しますよ。また転んだら大変ですし」
「はぁ?」
 それは暗に家まで来ることを言ってるんじゃないか。
 俺は了承した。もてた事なんて小学校低学年以来ない。
 和服で自転車を押すのは動きにくそうだったが、こういう場合は代わってやるべきなのか、俺にはよくわからなかった。ここで代わったら彼女が俺と歩く意味がなくなってしまうんじゃないかとか、打算的なことを考えていた所為だ。
 神社は上り坂の真ん中よりちょっと上にある。
 道に出る所でちょっとよろめいて、自転車を押す女性と俺はまた坂を登り始めた。
「一人で歩いてて退屈だったから、つい話しかけちゃったんです」
「はぁ」
 本当に退屈だったらしく、俺が生返事しか返さなくてもまったく気にならないようだった。
 何で和服なんですか、とかこんな時間になんでこんなところ歩いてるんですかとか、色々と聞きたいことがあったが、自分から声をかけるタイミングは失っていた。
 荷物がなくなって身軽になった俺に比べて、自転車を引いていて和装の女性は遅い。やっぱり途中で自転車を押すのを交替した。早く帰りたいという気持ちがその時は優先していた。
 俺、多分お喋りな子とは付き合えないな、と頭の片隅で思ったが大人しく話を聞いていた。
 坂の上まであと少し。ここを乗り切ればあとは延々下り坂だ。
「本当はもっと早く行くつもりだったんですけど、なれない着物とか着たら時間掛かっちゃって」
「どこにいくんですか?」
 ようやく聞けた。早く行くつもりって、こんなところで俺を構っていてよかったんだろうか。
「海を見に行くんです」
 彼女が指さした先はまだ坂の続き。もう少ししたら海も見える。一人でいくわけがないってことくらい、俺にもわかる。しかも普段着じゃないような恰好してるんだから、なおさらだ。
「待ち合わせですか」
 気をつけたつもりだったのに、僻むような言い方になってしまった。彼氏、いるんじゃねぇか。幸せで浮かれてたのか。道理でよくしゃべるわけだ。
 それは随分とロマンチックですね。俺はこの後一人で家に帰って飯食って風呂入って寝ますよ。どうします、この二リットルのペットボトル二本。冷蔵庫入りませんよ。
「あはは、そうですね神様と」
「はぁ?」
 天然っていうか、電波。関わると、大火傷をおうタイプ。
 どうしよう。これは脈ありとかじゃない。関わっちゃいけないタイプの人間に引っかかってしまった可哀想な人間、俺。
「あ、分かってないですね」
 ええまったく。分かったら、俺もそっち側の住民。
 坂を登りきった。女性の指さした先には海岸。
 絶句した。目を離せなかった。
 火事かと思った。
 赤く燃える火。典型的な現代っ子の俺は自然の火を久しぶりに見た。あんなに大きな、赤い火。
 その火に照らされて、大勢の人たちがみえた。
 神在祭。神無月に、やってくる神様を迎える祭り。
「忘れてました?」
 地元民としてどうかと思いますよ、それ。と女性は心底呆れた顔で付け加えた。
「祭りとか、あんまり興味なくて」
 言い訳がましく呟くと、彼女は噴出した。
「ほら、ここからみたらほんとに神様が来るみたいでしょ?」
 俺の目に映るのは、赤い光とたくさんの人。
 異世界を覗いてしまったような、非日常的な祭り。
「遅いよー、ってあれ、何やってんの?」
 そこにいたのは、約束をすっぽかした友人たちだった。
 防寒具もってやる気満々な感じだ。
 一気に脱力する。俺だけ誘われなかったのが、やっぱり癪に障って、でもなんとか合流できたことに安心して。
 何とか、俺は神有月の会合に間に合ったらしかった。

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