マグノリア探偵社

マグノリア探偵社

二、庭でレンゲと掴むまばゆい千萱の穂

 レンゲは見ていると、思わず口元がほころんでしまうような愛らしさを備えている他は、なんの変哲もない子猫でした。希少価値があるなんてこともなかったと思います。品種はよくわからないんですが、ロシアンブルーとかシャム猫とかそういうのではなく、ごくごく普通のイエネコです。
 毛色、ですか?
 ええと縞模様ですね。黒と灰色の。サバトラ、そういうんですか。そうそれです。お腹と手足が白くて、サバシロ? なるほど、とにかくそれです。
 私はもともと愛猫家というわけではありませんでした。子供のときも大人になってからもペットを飼ったことがなくて、強いていうなら生き物係の当番で学校の池にいた鯉に餌を投げ入れたくらいかな。動物というのが人生の中で縁遠かったんです。レンゲを引き取ると決めたのも、一大決心でした。
 きっかけは他人の猫を預かったことなんです。私には家族ぐるみで付き合いがあって家も近所の、戸塚という友人がいました。そいつは独身時代から、恋人のように可愛がっている大きな毛の長い猫を飼っているんです。
 ある日、その猫を預かってくれないかと言われましてね。
 なんでも戸塚の妻が旅行で家を空けるのに、急な出張が入ってしまったと言うんです。あまりに直前だったのでペットホテルの予約が取れなかったから、家が近所で一戸建てに住んでいる私に助けて欲しい。そういう事情らしいんです。
 最初は断りました。なにしろ昼間は仕事でほとんど家を空けているので、猫の世話をするのは妻になります。勝手に安請け合いしたら不興を買うのは目に見えていました。そうでなくてもそのときの私は、さきほど話した通り動物というものに興味や愛情を持っていなかったんです。
 妻に相談してから、と答えました。一応相談はするが、彼女はきっと嫌がる。悪いがそれを口実に断らせてもらおう。そんなことを考えていました。
 夕食のときに、戸塚が猫を預かって欲しいと言ってきた話を切り出しました。なるべく面倒で彼女の負担が多く思えるような言い方で。卑怯に思われるかもしれませんが、そのときは本当に猫の面倒を見るなんて嫌だと思っていたんです。
 彼女は、興味があるとそう言いました。数日でいいなら預かってみたい。ぜひ連れて来て、と言ったのです。
 私は正直かなり驚きました。
 こんな言い方をすると、彼女への愛情を疑われるのかもしれませんが、妻にきちんと動物の世話をするような甲斐性はないと思っていました。あまり家庭的なタイプではなかったんです。料理をするのも洗い物をするのも、手が荒れるから嫌だし洗濯物も指輪に引っかかるから嫌いだとそう言っていました。まして毎日餌をやったり猫砂を替えてあげたりを、進んでやりたがるようには到底見えませんでした。
 断る口実にしていた妻が是非と言ったので、私は猫を預からなくてはいけなくなりました。
 電話で了承の意を伝えると、戸塚はその日の内に猫を連れて来ました。猫以外にもゲージや餌や、トイレの砂や諸々、車の後部座席とトランクが一杯になるくらいあって、動物を飼うというのは大事なのだなと思いました。
 家にいたのはほんの数日です。三日ほどの間だったでしょうか。その間、私は全く猫の世話をしていませんでした。ほぼ姿を見ていなかったと言っていいくらいです。そもそも昼間は家にいなかったし、妻はずっと猫を自分の寝室に置いていたんです。そこまで彼女の猫に対する興味が熱烈だとは思っていませんでした。
 トレードマークのように毎日身に付けていたお気に入りのイヤリングすらも外していたんですよ。猫がじゃれついて危ないからと。それくらい四六時中、べったり一緒にいて世話をしていたようなんです。
 だから実を言えば、猫に興味が出たのは猫が私の家から立ち去ったあとです。猫とはそんなに可愛いものか。そう思いました。
 妻はかなり入れ込んでいましたが、どれほど愛情を注いでもそれは借りてきた猫です。戸塚の家に返してしまって寂しいだろう。そこまで好きならば飼ってはどうだろうと思いました。家を空けがちで寂しい思いをさせていたし、家に生き物がいることが慰めになるかもしれない。
 ちょうどそんなときに町内会の掲示板で、子猫譲渡と書かれたチラシを見ました。近所の個人宅で飼い猫が子供を産んで、引き取り手を探しているというのです。そこに載っている写真を見たときに、私は猫を飼おうと心に決めました。
 妻に伝えると彼女は家で猫なんて飼えるかしら、と言いました。戸塚の猫を預かっていたときは、あんなに猫にぴったり張り付いていたのに、なぜか消極的に見えました。その頃にはもう彼女はお気に入りのイヤリングをして、指輪のために家事を厭い手荒れを気にするいつもの彼女に戻っていました。
 戸塚の猫はあんなに可愛がっていたじゃないかという話をすると、猫の愛らしさを思い出したのか、そうねといって同意してくれました。私はまず戸塚に連絡して、猫を飼うために必要なものを聞き、アドバイスを受けることにしました。
 チラシに書いてあった電話番号に連絡をすると、ペットを飼うのは初めてかと聞かれ、動物を飼うということの責任と金銭的な負担に対する注意を受けました。いきなり経済状況などについて聞かれたので少し驚きましたね。いえ、そんな収入などの詳しい話はしてないですよ。ただ食費だけでなく定期的な通院や突発的に病気に罹って治療が必要になることがあるし、猫は世間で思っているほど手が掛からない動物ではない。動物を飼うというのは、想像しているよりもずっと大変であるということでした。生き物の命を預かるということの覚悟を問われていたのだと思います。むしろ私は相手が動物を思いやる、しっかりした人であることに好感を覚えました。
 次の週末、私は猫を引き取りに行きました。妻は戸塚に車を出してもらって、今日中に必要なもの一式を揃えてくれると請け負ってくれました。なんだかんだ言いつつ彼女も乗り気だったのです。
 子猫は全部で四匹いました。
 まだ生後五ヶ月くらいでした。とはいえ子猫とはいえ手足からは頼りなさが抜け、元気に走り回ったり人のズボンに爪を立てて駆け上がったりするような頃です。ちっともじっとしていない四匹の子猫は、部屋の中で遊びまわりその子たちの母猫は、警戒心が強い顔で飼い主の膝に乗っていました。
 どの子か一匹を。
 そう思っていたのですが、なかなか決断することができませんでした。飼い主は私の葛藤がよくわかるようで、ゆっくりしていってくださいと言いました。
 最終的に選択をしたのは、私ではなくレンゲでした。遊び疲れた一匹の子猫が私の膝の上によじ登って、寝息を立てはじめたのです。それを見てこの子を引き取ろうと決めました。私はレンゲに夢中でした。そのときにはもう妻よりも私の方がその愛らしい生き物に夢中になっていました。
 最初に言った通り、レンゲは室内飼いです。レンゲを引き取ってきた家も戸塚もそうしていたので、アドバイスに従いました。
 私の家が近隣の野良猫の縄張りだったら、侵入者であるレンゲは追い立てられてしまうし、まだこの場所を家として覚えていないから帰って来ないかもしれない。まだ小さいからカラスに襲われるかもしれないし、どこかの家に入り込んでそのまま飼われてしまうかもしれない。そんなのは嫌だったからです。
 まだ家全体に猫を受け入れる準備を施しているわけではなかったので、キッチンで悪戯をしたり洗濯機に入り込んだりしないように、しばらくはリビングだけで過ごさせることにしました。目が届く間だけゲージの外で遊ばせて、徐々に家に馴染ませていこうと思っていました。
 レンゲが家族になってからというもの、私は家に帰るのが楽しみでなりませんでした。世話は二人でしていました。私が家にいる間は私が、仕事でいない間は妻が面倒を見てくれていました。
 レンゲと触れ合いたくて、家にいる時間が増えました。
 そんなに構い倒していたら、疲れてしまうわよ。まだ子猫なんだから。そう妻に諌められてしまったくらいです。
 そんなレンゲが姿を消したのは、彼女が家に来てから一ヶ月後。今から二週間ほど前です。だいぶ家に馴染んでいましたが、二人揃って家を空けるときはまだゲージに入れていました。
 その日は、たまたま私も妻も外出していました。私は仕事で、妻は友達と遊びに行くと言っていました。先に家に帰って来たのは、私です。妻は遅くなると聞いていたので、帰宅したあと玄関は施錠しました。それははっきりと覚えています。
 雨が降っていて体が冷えたので、私は先にシャワーを浴びました。コーヒーを淹れてからリビングにいってレンゲを遊ばせてあげようと思ったとき、違和感に気が付きました。ゲージの中からレンゲの姿が消えていたのです。
 私はゲージの外に逃げ出したのかと思い至って、部屋の中を探しました。名前を呼んでも猫は返事をしませんが、餌が欲しくなったら出て来るはずです。帰って来たときにリビングのドアは閉まっていたから、別の場所に隠れているとは思えません。でもコーヒーを手に持ってそちらに集中していたから、リビングに入って来るときに足元をすり抜けたことに気付かなかったのかもしれないと思い、範囲を広げて家中を探しました。屋根裏や押し入れやタンスの裏側、靴箱の中まで。もちろん洗濯機の中や食器棚の中も探しました。もしもを考えて慎重にドアを開けて外を探しもしました。
 それでもレンゲの姿はどこにもなかったのです。
 妻が帰って来てから二人で探したのですが、それでも見付からない。鳴き声ひとつ聞こえて来ないので、レンゲは家の中にはいないのだと認めざるを得ませんでした。
 考えられる可能性は、やはり外に出たことです。もしや生家に帰ったのではないかと思って、私はレンゲをもらい受けた家に再び連絡を取りました。
 当時の状況を説明してアドバイスを求めましたが、その人も首を傾げるばかりでした。ゲージが閉まっていなかっただとか、窓が開いていたならわかります。しかし確かに閉まっていたし、外は雨でした。外に出られるとして猫は濡れるのを厭いますから、わざわざ快適な室内から出て行くだろうかというのが、その人の所感でした。ただもしこちらの家に戻って来たら連絡をくれるし、近所でそれらしい猫がいないか探してくれると約束してくれました。
 妻も警察に届けを出し、世話になっている動物病院に聞き込みに行ってくれたのですが、それらしい猫が保護されたという話はありませんでした。
 これがレンゲの失踪に関わる全てです。
 首輪? そうですね、赤い首輪をしていました。近所のホームセンターで買ったものです。これも特に珍しいものでも貴重なものでもないです。ちゃんとレンゲと名前を書いてありましたが、それだけです。だから外に出ても飼い猫であることはちゃんとわかると思うんです。
 猫の他に家から消えているものも、なかったと思います。いえ全て調べたわけではないので、絶対とは言い切れないですが。少なくともなくなって気が付くような大事なものはちゃんとあります。印鑑や通帳の類は無事でしたし、家が荒らされていただとか、誰かが入った形跡があったとか、そんなことはなかったはずです。気が動転はしていましたが……。
 これが、レンゲの写真です。この子を、探していただけますか?
◆◇◆
 佐々木 由一から聞いた話は以上だった。
 招霊 いおりは、話を聞きながらまとめたノートを自分でも読み返す。佐々木から預かった写真もそこに挟んである。可愛らしいが猫は猫だ。飼い主以外の人間が見ても子猫だという以上の感想は浮かんでこない。
 しかし詳しく聞けば不思議な話だ。密室から猫が消えた。猫は細い隙間に入り込むものだが、何日も経っているのに一声も上げずどこからも出てこないということはないだろう。
「先生、本当にこの依頼受けてしまってよかったんですか」
 どうやったら解決に導けるのか、全く想像が付かない。
 辛夷探偵事務所開業以来の初仕事である。これで失敗したらもう次は来ないのではないかという不安がある。ペット探しの報酬は先払いである。しかし何の結果も得られなかったとなれば、印象は良くないだろう。
 できることなら依頼人が目を瞠るような成果を出して、口コミで探偵事務所の評判を近隣に広めてもらいたい。
「私は解決できそうな依頼だけ選り分けて受けるつもりはないよ。もともとお金が目当てではじめたものではないし」
「わかっています」
 功を焦っているのは、いおりの方だ。何か結果を残さなければいけないという気持ちばかりが募り、佐々木からの依頼内容が猫探しと聞いたときに、やっと来たのがそんなつまらない仕事なのかと思ってしまった。それが顔や態度に出てしまっていたから、話を切り出した佐々木は不安そうな顔をしていたのだ。
 目元を隠していても、伝わるものは伝わる。むしろ考えている不都合なあれこれがすぐに態度にでて相手に伝わってしまうから、いおりは顔を隠しているのだ。人と目を合わせて話すことが苦手だった。はっきり顔に出過ぎて今考えたあれやこれやが漫画みたいに吹き出しになって頭の上に浮かんでいるんじゃないかという想像をして、一人で不安になったり恥ずかしくなったりしている。相手を見て話すときに、顔のどこに目線を置いていれば非礼じゃないのかわからないから、注視するか目を逸らすかのどちらかになってしまう。
 まるで探偵向きじゃない。
 みちるに代わって辛夷探偵社の顔を務めているのにこれではいけないと自戒する。
「解決できるかどうかは知らないけれど、どこを調べればいいかは見当が付いてる。たぶん見付かると思うよ」
「そうなんですか」
 いおりはぱらぱらとノートを捲る。依頼人の話はなるべく詳しくまとめようと思っていた。そして彼女に読んでもらって、事件解決に繋がるような重要な情報を見逃していないか確認してもらう。今後、彼女が居ないときに依頼人の話を聞く機会は多いはずだ。そういうときのための練習である。
 一体、探偵の目はあの話から何を読み取ってどんなことに気が付いたのだろう。
「一番高い可能性を考えようよ」
 家の中から猫が消えた。自力で脱出できる状況ではなかった。これは事実だろう。子猫ならゲージの隙間から逃れられたのかもしれないし、留め具もそこまで強固なものではないから器用な猫が自力で開けたとも、そもそもちゃんと閉まっていなかったとも考えられる。
 だが鍵の掛けられた家はそうではない。窓もリビングのドアも閉じ、玄関も鍵を掛けてあった。よほど不注意な人間でない限り、雨の日にこれらの戸締りを怠って外出することはないだろう。猫が自力で開く可能性があるのは、精々リビングのドアくらいだ。
 そも生後五ヶ月の段階で抜け出たことがないのなら、ゲージのサイズは適切で脱出はできなかったと考えていい。
 猫が居なくなったとき散々探しただろうから、見えない場所に隠れているという可能性も低い。そうであるならばおそらく既に死んでいて、二週間も経っていれば異臭を放って虫が湧き、否応なしに居所がわかる頃だ。
「ゲージも玄関の鍵も開けられる人間が連れ出した。私はそう考えるよ」
 ゲージは誰にでも開けられる。しかし、玄関の鍵はそうもいかない。家の中になくなったものはないし、猫自体も目当てにされるような希少性はない。金になるものがあるならともかく、猫一匹のために鍵をこじ開けるような危険と手間を掛けたとは考えにくい。元々鍵を持っている人間がやったのだと考える方が自然だ。
「ゲージも玄関の鍵も開けられる人間。……依頼人、ですか?」
「依頼人は猫探しにきた張本人だよ。確かに依頼人が犯人、っていうのも事件としては面白いけどね。私も考えたよ」
 その口ぶりからすると、彼女の頭脳は依頼人が犯人であるよりも、納得がいく筋書きを見付けたのだ。他に家の鍵を持っていそうな人物は一人だけだ。
「では彼の妻?」
「うん。佐々木さんが猫に興味を持ったきっかけは、彼女の猫への執着。でも私は、彼の〝妻は動物の世話をしたがるような人間じゃない〟という印象は、正しかったんじゃないかと思っているよ」
「でも実際は片時も離さないくらい、甲斐甲斐しく猫の世話をしていたんですよね」
「そう。だけど、レンゲに対して彼女はそこまで愛情深かったかな。最初は猫を飼うことに否定的な態度を取っていた。なんだかんだ言いつつ乗り気であるように映ったのは、戸塚さんと車で買い物に出掛けたとき。むしろ戸塚さんの方が彼女に取って特別だったんじゃないかと私は考えてしまうな」
「先生、それはまさか」
 いおりはみちるが言わんとすることが理解できてくると、顔をしかめた。それは彼女が扱うには不適切な話題に思えたのだ。しかし当人はいおりの懸念を気にも留めずに話を進める。隠された秘密を読み解くことに長けた彼女は、人の浅ましさと一筋縄でいかない男女の仲などとっくにわかっている。
 レンゲが失踪した日、夫妻はどちらも出掛けていた。帰って来たのは妻の方が後である。しかし、出掛けたと見せ掛けて家に戻って来て猫を連れ出すのは不可能ではないだろう。何のために連れていって今どこにいるのか、佐々木の話からはわからないが、調べるべき場所のヒントはある。
 佐々木の妻が一連の件で主体的に動いたことはほとんどない。戸塚の猫を預かっているときと猫を飼うためのものを買い出しに行ったとき、そして動物病院と警察へ連絡したときだ。
「まずは本当に彼女がレンゲを探しに来たのかどうか、確認してみようよ」
 みちるは悪戯を思い付いた子供のように笑い、二人は次の日からさっそく調査に出掛けることにした。
 探偵のふりをした助手と助手のふりをした探偵の二人組。しかし他人から見ればいおりは、親子程に年が離れた血のつながりがあるようには見えない少女を連れて歩いている成人男性である。職場がある建物のオーナーの孫娘ですなんていう嘘を警察に説明する羽目にならないよう、不審がられないようにしないといけない。
「僕はちゃんと情報を引き出せるでしょうか」
 正式に依頼を受けているのだから、この調査には正統性がある。しかし病院や警察が民間の探偵組織に情報を明かしてくれるかというのは、また別の問題だ。いおりは不安そうな顔をする。彼が探偵の振る舞いをするときは、憧れの探偵を頭の中で思い浮かべてそれを演じているだけだ。訊ねる内容はみちるの指示で決まっているから淀みなく口にできるだけで、本当はすぐに言葉に詰まる気が弱くて内気な男である。
「大丈夫」
 どんな結果が出てもそれはマイナスではない。目指す場所にまだ辿り着けていないだけで、確実に前に進んだ結果なのだから細かいことは気にしなくてもいいとみちるはいおりを勇気付けた。
 掛かり付けの獣医は佐々木に改めて確認しなければいけない。今日のところは交番からだ。普通は家の近くの交番に行くだろう。佐々木の自宅周辺にある交番を地図で調べて聞き込みに行き、最後に保健所に連絡を取ることにした。
 いおりは気負っていたが、交番から話を聞くのは子供でも難しくない。むしろ子供の方が警戒されないから話を聞き出しやすい。猫を探しているんですといってレンゲの写真を見せる。そして佐々木の連絡先を伝えればいい。もし担当してくれた人間が同じならば、その届けは既に出ていることがわかる。そうでなければ家族が同じ届出を出しているかもしれないんですが、母は来ましたかなどと聞けば概ね知れる。
 一日掛けて歩き回り地道に聞き込みをしてみたが、結果は全て空振りだった。もしもを考えて少し離れた場所の交番にも足を向けてみたが、迷い猫の届け出自体ここ二週間の範囲で言えば入っていないし、張り紙もない。いくつか見付けた届け出も探されているのは成猫で毛色も特徴もレンゲとは別の猫だった。
 佐々木の妻は交番に届け出たと言ったが実際は何もしていないのだ。
 事務所に戻ると二人してソファに体を投げ出して、足を休める。
「やはりレンゲ連れ出したのは、彼女なんですね」
「可能性が高まった、という程度だね。彼女がレンゲの捜索に対して消極的であることははっきりしたけど決定的な証拠にはならない。第一、佐々木さんの依頼は猫を見付けて欲しいのであって犯人探しをして欲しいじゃない。明日、動物病院に行って確かめよう」
「予定通り、動物病院ですか? 本人に直接を聞いた方が早いのでは」
 話を聞いたところで、今日と同じ結果が出るだけではないだろうか。掛かり付けの動物病院は一つだけだから交番ほど広範囲を歩き回りはしないだろうが、徒労に終わるとわかっていると、やる気が出ない。
「うん、動物病院。後ろ暗いところがある人間が素直に本当のことを言うとは思えないから、彼女に話を聞くのは最後でいい。そんなことをしなくてもレンゲの居場所はわかるからね。それよりも話を聞きたいのは、戸塚さんだ」
「戸塚さん……ですか」
「うん。レンゲはたぶん明日見付かる。でも何があったのかを明らかにするのなら、彼に動物病院に来てもらうのが早いんだ。いおり君、なんとかならないかな」
 彼女の推理が当たっていれば佐々木の妻と彼は深い仲にあり、今回のレンゲ失踪事件とも関わりがある。しかし呼んだところで来てくれるだろうか。関係があったら後ろ暗いから詳しい話など聞かれたくないだろう、無関係なら休日に他人の家の猫探しに付き合わされる筋合いはない。
 しかし事件解決のために必要だ。探偵にそう言われたら助手は叶えないわけにはいかない。
「わかりました。呼び出してみましょう」
 まずは戸塚の電話番号を調べなければならない。そのためには佐々木に連絡を取る必要がある。早速、電話を掛けようとしたいおりをみちるが呼び止める。
「それより先に、やることがあるよいおり君」
「はい。なんでしょうか、先生」
「歩き通しで喉が渇いた。いおり君の入れた紅茶が飲みたいよ」
 みちるは真面目な顔でそう言った。
◆◇◆
 動物病院の聞き込みには佐々木も同行した。みちるが来て欲しいと言ったためだ。戸塚も来ることを伝えると、怪訝そうな顔をした。確信がないのに夫婦関係を揺るがすような推理を伝えるわけにはいかず、いおりは必死に言い訳を考えた。
 その場にみちるも居たのだが、依頼人の目の前で彼女の知恵は借りられない。子供に反論できない隙のない理屈を並べ立てられると、気を悪くする大人がたくさん居るのだ。それは事務所をやると決めてから探偵の身代わりを立てる案を思い付くまでの間に、二人が学んだ多くのことの一つだった。
 考えあぐねた末に、猫の痕跡が家に残っていたことが失踪と関係があるかもしれないだの偶然定期検診で来るついでに話を聞くだけだのという理由をいくつか並べた。下を向きながら早口にもごもごと捲し立て、反論を受け付けずにごまかした。
 やがて待機する三人の前に、戸塚が現れた。休日だというのに人に見られることを強く意識した格好で、髪をきっちりと整えていた。
 猫の定期検診にやって来ただけのところに、思いがけず友人と遭遇し面食らった顔をした。実はその予約はいおりが入れたものだ。そして戸塚家に明日定期検診の予約が入っていますが、お忘れではないですかと電話を掛けた。幸いにして予約を取り直すほど忙しくはなかったらしく、心当たりのない予約に首を傾げながらも彼はやってきてくれた。戸塚と彼の妻、どちらが来ても話はできるが戸塚本人が来てくれたのでさらに話がしやすくなった。
「わぁ、可愛い」
 みちるはペット用キャリーバッグを覗き込んで、黄色い声を上げた。戸塚は自分の飼っている猫を褒められたのが嬉しいのか笑って応じ、見やすいようにゲージを待合室のソファの上に乗せた。彼が事件に関わっていると確信しているいおりの目に彼の行動は、そうやって知らない人間とコミュニケーションをして取り込み中であることをアピールし、佐々木と話をすることを避けているようにも感じられた。
 しかし友人と居合わせて、視界に入らないふりを続けることは難しい。
「どうした佐々木。動物病院にはもう話を聞きに来たんだろう?」
「そうなんだがレンゲ探しを頼んだ探偵さんの案内でね」
「探偵? 猫探しでか」
 戸塚は驚いた顔をした。飼い猫を探すために探偵を雇い、なおかつ動物病院に案内までする人間が居るとは思っていなかったんだろう。
「見付かるのか? 金を無駄にするだけじゃないか」
 それは横に立つ辛夷 みちるの名前を借りたいおりに対する嫌味のようだった。
 ここに居る誰も、猫を撫でようとキャリーの格子の隙間から指先を突っ込んで猫をじゃらしている少女こそが探偵などとは思っていない。
「見付かりますよ。すぐに見付かります。今日にでも」
 みちるがそう言い、いおりはそれを信じているから堂々と言うことができた。戸塚は横合いからそんな風に、確信を持った反論をもらうとは思っていなかったらしく、気まずそうに黙り込んだ。どう振る舞えばいいのかは事前にみちるから聞いている。まずは定期検診で、戸塚の猫が呼び出されるのを待つ。
 やがて診察の順番が回って来た。診察室に素知らぬ顔をしてみちるが入り込み、いおりと事情がわからないままの佐々木もそれに続いた。
「あ、あの、後ろの人たちは?」
 獣医とスタッフが怪訝そうな顔をする。
「佐々木、なんだ。こんなところまで入ってくるな」
「関係ない方は、待合室でお待ちいただけると」
 スタッフが不審者三人を追い出そうと立ちはだかる。
 ここで追い出されてしまうわけにはいかない。招かれざる客はここに居て当然だという顔で堂々としているといいというのは、みちるのアドバイスだ。
「いえ、我々は戸塚さんの友人なんです。ちょっと話がありまして」
「そうなんですか」
 確認をするようにスタッフが戸塚の顔を見る。我々という言い方は正確ではないが戸塚は佐々木の顔を見て、渋々頷いた。知り合いなら仕方がないという顔でスタッフは三人を叩き出さずに、もう少し穏便な方法を採ることにした。
「お話がある場合は診察室の外でお待ちいただくか、別の場所にしていただけると」
「すみません。聞きたいことがあったんです」
「突然、なんだ。お前らの仕事は猫探しだろう。大人しく外に」
「猫はもう見付かったようなものですよ」
 戸塚の言葉を遮ったのはみちるだった。大人の話にいきなり首を突っ込んできた少女に、部屋の人間の視線が注目した。
 にこにこと愛想よく笑い猫を愛でていた少女は、今は不遜な笑みを唇の端に浮かべて大人たちを見上げている。順番にその顔に浮かぶ表情を確かめた。彼女はもう、子供は黙っていなさいというお決まりの文言では退けられない真実に辿り着いている。
「戸塚さんの奥さんが来る可能性も考えていたんですけど、本人が来てくれて助かりました。これで関係者は佐々木さんの奥さんを除いて全員揃ったわけです」
 診察台の上のキャリーケースに入れられて所在なさげにする猫はみちると目が合ってにゃあと抗議の声を上げた。こんな居心地の悪いところに置いたまま長話をされたら迷惑だ。医者に用がないのなら家に帰してくれ。そういう訴えの声が聞こえて来るようだ。
 すぐに済むからねと笑い掛け、部屋の真ん中に歩み出る。全ての謎を解き明かした達成感は脳髄に甘く、自然と笑みがこぼれる。診察室の冷たい明かりの下では、室内にこもりがち少女の肌は白すぎて眩しく見える。舞台の上でスポットライトを浴びるように、芝居掛かった動作で全員の顔を見回した。
「先生、佐々木さんが飼っている猫のレンゲちゃんが行方不明なんですよ。ご存知ですか?」
 くるりと振り向き、獣医に訊ねる。
 余計な言葉を挟む暇は与えなかった。油断をしていた戸塚は、みちるの口を塞ぎ損ねうまいごまかしを言うタイミングを逃した。
「行方不明? 止むを得ない事情で飼えなくなったんじゃないんですか」
「飼えなくなった? 誰がそんなことを。私はレンゲを手放したつもりはない」
 佐々木が目を向いて獣医に詰め寄る。
 胸ぐらを掴み掛かる勢いだったので、いおりが間に入って止めた。問い詰めたところでわかるわけがない。獣医をこのメンバーに加えたのは、今回の件に直接関わってはいないが、全ての関係者の顔を知っているからだ。彼から客観的な事実をもらえば嘘つきが炙り出せる。そして彼はレンゲの居場所も、知っている。
「そういう事情なんです。レンゲちゃんの今の飼い主、教えてくださいますか?」
 獣医は頷いてスタッフに声を掛け、カルテを取りに行かせた。
「今の飼い主? 一体どういうことなんですか、辛夷さん」
「今聞いた通りです。レンゲちゃんはあなたの家では飼えなくなったことにされて、別の家に引き取られていたんですよ」
 佐々木が呼ぶ探偵はいおりのことだが、答えたのはみちるだった。
「これでレンゲちゃんの居場所はわかりました。でもなぜこんなことが起こったのかを説明するために、もう一つ確信が欲しいんです。私の予想では以前に戸塚さんの猫がここを受診していますよね。おそらくアクセサリーの誤飲で。二ヶ月ほど前じゃないですか?」
 探偵がいきなり訪ねて話を聞こうとしても、個人情報保護の観点から勝手に他人に話すことはできない。本人がその場にいる場合か、止むに止まれぬ事情があると認めさせる必要がある。だからみちるは今日ここに関係者を集めたのだ。
 戸塚が答えなかったので、獣医が代わりに返答した。手元のカルテを確認する。
「ええ、そうですね。イヤリングを飲み込んでしまったということで、やって来ました。確かにそれくらいの時期です。なぜ、わかるんですか」
「イヤリングか。指輪かと思っていたんですが。でもこれで疑問だったこともすっきりしました」
 何を事の発端とするのかは難しいところだが、レンゲが佐々木家にやって来る前よりに既に事件ははじまっていたのだ。
 二ヶ月ほど前のその日、戸塚の猫がイヤリングを誤飲した。幸い小さいものだったので即時の入院手術が必要になるような容態ではなかった。手術したときの体の負担を考えて、様子を見ながら自然に排出されるのを待つことになった。
 問題はそのイヤリングが、戸塚の妻のものではなかったことだ。戸塚と佐々木の妻は、不倫関係にあった。言わずもがな、これが露呈することはなんとしてでも避けねばならない。
 そのまま糞と一緒に処分されればまだいい。イヤリングは失くしたと言ってしまえいいのだ。だが運悪くその輝きが戸塚の妻の目に止まってしまった場合、まずいことになる。完全室内飼いの猫が心当たりがない女物のイヤリングを飲み込んでいたというのは、穏やかではない。だが他の女と頻繁に会っている戸塚のような男が普段から家に居付いているわけがない。猫を可愛がっているとはいえ、日頃の世話は妻がしていることは、容易に想像できる。突然、猫の世話の全てを任せてくれと言ったところで不自然だし、仕事に行っている間はどうしたって無理だ。
 だから戸塚と佐々木の妻は口裏を合わせて、佐々木家で猫を預かる状況を作り出した。家のことにあまり興味がない佐々木が、妻の了承が取れればと言い出すことは想像の範疇だ。二人が口裏を合わせていれば、なんとかなる。
 佐々木家に猫を置いておけば、イヤリングが戸塚の妻に見付けられるのを防ぐことができるし、佐々木が仕事に出ている隙にゆっくりと探すことができる。付きっきりで世話をしていたのではなく、部屋に閉じ込めていたのだ。佐々木がイヤリングを見付けてしまうのを防ぐためもあったし、彼女は猫がそこまで好きではなかったから、なるべくゲージの中で大人しくしていて欲しかったのだろう。
 普段付けているアクセサリーを外していることにも、猫の世話をしているからだと言い訳を付けられる。どうせ佐々木は動物を飼ったことがないから詳しいところはわからない。話を聞くにしても友人である戸塚からだろう。何とでもごまかせた。
 彼女は猫が帰ったあと元の通りにイヤリングを付けていたということだから、無事に見付けることができたのだろう。
 この件はこれで終わったはずだった。
 想定外だったのは、この一件で佐々木が猫に強い興味を持ってしまったことだ。
 佐々木の妻はそもそも動物が好きそうに見えなかったという。その印象通りなら、猫の糞を回収しイヤリングを探す作業は彼女にとって不愉快極まりなく、どちらかというと悪印象だったのではないかと推測できる。しかし、あんなに猫を可愛がっていたじゃないかと言われれば、首を縦に振るしかない。
 かくして、佐々木家にレンゲがやって来た。
 そのことが、秘密の関係を結ぶ戸塚と佐々木の妻の間に思わぬ問題をもたらした。
佐々木がレンゲを溺愛するあまり、休日も家にずっと居るようになったのだ。家を留守にする妻の行動が目に付くようになってしまう。密会をするチャンスは減った。はじめから猫を疎ましく思っていた佐々木の妻は、猫をどこかにやってしまおうと考えた。彼女が具体的に何を考えていたのかは、知る由もない。その辺に捨ててしまおうと考えていたのかもしれないし、保健所に連れて行くか、段ボールに入れて川に流してしまおうという残酷なことを考えていたかもしれない。
「でも戸塚さんはそれを聞いたら止めたはずです。何しろ猫が好きですから」
 佐々木との友情や妻への愛情は偽りでも、猫を慈しむの気持ちは本物だった。だから子猫が犠牲になり、最悪死んでしまうようなやり方は許容できない。だから戸塚が代案を考えた。
 他の人に引き取ってもらうことにしたのだ。止むに止まれぬ事情で、飼えなくなった猫がいる。引き取ってくれないかと知り合いに声を掛ける。犬やあるいは高価な猫ならば出自や血統を気にする人間もいるが、レンゲはただのイエネコだ。しかも子猫で、まだ譲渡先を探していても不自然ではない。
 そして佐々木の妻が、猫を家から連れ出した。
 雨の日を選んだのは近隣住民に見られないようにするためだろう。ゲージを開けっぱなしにしておけば、多少無理はあっても逃げ出したと思い込ませることだってできた。それをしなかったのは、結局のところ彼女はそこまで猫にも佐々木の猫に対する愛情にも興味がなく、深く考えてはいなかったからに他ならない。防犯や吹き込む雨のことを考えたら、偽装のために窓を開け放しておくことも憚られた。
 かくして猫が消える密室が完成した。
 佐々木の妻もそして戸塚も、佐々木の猫に対する情熱を甘く見ていた。状況があまりに不自然だったこともあり、彼はレンゲを諦めなかった。
 みちるは佐々木から話を聞いたとき、佐々木の妻が犯人ではないかと考えた。彼女が能動的に動いたのは戸塚の猫を預かったときと戸塚と買い出しに行くとき、それを除いたら交番と動物病院への聞き込みだ。
 だからそのどちらかに、レンゲの今の居所に繋がるヒントが隠されていて佐々木本人を行かせたくなかったのだとあたりを付けた。交番が空振りだったなら、あとは動物病院しかない。
 飼い主は勝手に変えられたが、病院は勝手に変えられない。また別の猫ということにして引き取られたら、予防接種などが重複して猫の健康を害する恐れがある。戸塚の建てた計画なら、それは避ける。戸塚が関わっていないなら、猫はただどこかに捨てられただけで、もっと状況はシンプルだ。だからレンゲが通っていた動物病院の獣医は、レンゲの居場所を知っている。
「以上が今回のレンゲちゃん失踪にまつわる全てですよ」
 探偵辛夷 みちるが話を結んだあと、部屋には沈黙が横たわった。
 いおりは、同じ情報を手に入れて一緒に行動していたはずなのに全く見付けられないでいた真実と、彼女が紡ぐ推理に聞き入っていた。
 医者は猫の健康チェックをするはずが厄介な状況に巻き込まれ、口を挟むべきではないと、黙って事の行く末を見守っていた。
 戸塚の沈黙は、彼女の推理を肯定していた。
 猫が不機嫌に尻尾をぱたんぱたんとキャリーに打ち付けている。
 そして、佐々木である。
 俯きながらみちるの話を聞いたあと、獣医と戸塚の顔を順に見てみちるの推理に訂正も否定も入らないことを思い知った。
「戸塚、お前!」
 彼は弾かれたように戸塚に飛び付き、殴り掛かった。
 キャリーの中で猫が唸り声を上げ威嚇する。
「ちょ、ちょっとやめてください」
 動物病院のスタッフといおりが止めに入るが、佐々木は止まらない。
「殴り合いはいいけどさ、猫を巻き込まないでよ!」
 騒然とする動物病院の中で、みちるは猫を避難させてため息を吐いた。
◆◇◆
 今日も助手は探偵にお茶を淹れる。いつも通り香り高い茶でもささくれだった心は慰められず、みちるは仏頂面だった。不機嫌な彼女のためにいおりはお気に入りの茶菓子をたくさん用意した。
「レンゲちゃんは帰って来たし、事件の謎も解き明かした。何がいけなかったんだと思う?」
「強いて言うなら配慮、でしょうか」
 何がと言われればそもそもの原因は戸塚と佐々木の妻の不貞で、あの二人が悪い。言い当てたからといって非難される筋合いはない。しかしその真実が動物病院での乱闘騒ぎを引き起こし、若干の軽傷者を出してしまったのは事実だ。
 報酬はもちろんちゃんと払われているし、妻の浮気調査の分として追加報酬まで渡されたが、佐々木はいおりと電話で事務的なやりとりをしたきり、探偵社にはもう顔も出したくないようだった。
「で、なんで君は連れて帰って来ちゃったの?」
「まさか引き取れない可能性が出て来るとは思っていなくて」
 ゲージの中でサバシロの子猫がニャと短く返事をした。
 乱闘の末、佐々木と戸塚が揃って病院と警察に行くことになったので、いおりが代わりに動物病院で住所を聞いてレンゲを迎えに行ったのだ。迎えに行ったはいいが、送り届ける場所を失い事件から数日経った今でも探偵社に居る。
 レンゲが預けられていた飼い主は、盗まれた猫を飼い続けるわけにはいかないとレンゲを返してくれた。いおりは代わりにまだ引き取り手を探しているレンゲの兄弟を紹介しておいた。問題は佐々木家である。家庭内で生じたいざこざを解決するため協議の真っ最中で、改めて家族を迎え入れる余裕はない。何しろ猫を飼いはじめたきっかけ自体が妻の浮気だったと判明した今、夫婦どちらにとっても複雑な心情だろう。
 レンゲの行き先をどうするか。その問題が宙に浮いたままになっている。
 いっそもう飼い続けることはできないと言われれば、レンゲを預けられていた家族に引き取ってもらうこともできたのだが、佐々木にはまだ猫に未練がある。どうするか決めかねているというのが正直なところだ。いつか返すかもしれない猫を置いておくと情が移ってしまって辛い。
 みちるはゲージを覗き込む。遊びたい盛りの子猫は狭い場所が不服のようで、全く落ち着きがない。
「うーん、まあいいか。一度受けた依頼だし、しばらくは預かろう」
「いいんですか?」
「いいんじゃない? レンゲは飼い主が誰かなんて、気にしてないよ」
 ゲージの扉を開けてやるとレンゲは早速、新しい家を探検しはじめた。
 まだ片手に乗ってしまうような軽い体は、テーブルを飛び出して指先で床を叩くような軽い音を立てて着地した。
 でも事務所で猫を預かるなんて、口を付いて出掛けた言葉を飲み込んだ。子猫と遊ぶみちるの表情を見ていたら、あらゆる問題は些細なことに思えたからだ。

*つづきは書籍にて
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