慌ただしく人々が行き交う鉄道の主要駅から郊外に離れると、都市圏と言いつつも住宅の狭間に畑を見ることができる。景色から田舎という言葉が滲みはじめる町の中で、駅前の商店街だけが都会の自我を失わずにいる。
街路の木蓮は人々の頭上に白い花を傾け、ときどきその大振りの花弁を餞別にひらりと投げ掛けた。仄かに甘い匂いを纏う商店街の只中、駅から十分と離れていない場所にその事務所はあった。一階は古くからその場所にあり、最近ビルを建て替えた不動産屋。物件情報のチラシが一面に貼られた視覚的に姦しい窓の脇には、一人通るのがやっとの二階に至る細い階段がある。登ったところにはまだペンキの臭いがするドアがあり磨りガラスに白い文字で「辛夷探偵事務所」と書かれている。
そのドアの向こう側で、探偵は昼下がりの陽気の中でソファに寝そべりまどろんでいた。春先の風は冷たいが、建物の中にいればうららかな日が差し込んで暖かく過ごしやすい日だ。心を騒がす事件もなく、事務所の座り心地のいいソファは探偵が昼寝をする場所としてしかまだ活用されたことがない。真新しい道具は大抵気持ちがいいものだが、この場合は事務所の経営を預かる助手の心労の種である。
もはや習慣となりつつある安らかな午後の眠りを妨げるのは気が引けるが、依頼人との約束の時間が迫りつつあった。そろそろ目を覚まして寝癖を整え、顔を洗って服の皺を伸ばしてもらわなくては困る。
ソファで眠りこけている姿を見ると、その人がこの事務所の探偵ですと言われても冗談としか思えない。助手はその実力を毛ほども疑ったことはないが、同時に探偵が外見から人に侮られやすいということもよくわかっている。一度その仕事ぶりを見せれば納得させられる自信はあるが、誰も彼もd信じられないという顔をする。
この事務所を借りるときも、こんな探偵に相談をする物好きがいるはずはないすぐに潰れるに決まっていると言われ、オーナーとは随分揉めたのだ。身内のコネで頼み込みなんとか説得したけれど、家賃も払えないような経営は許さないぞと脅されている。いや部屋の貸主としては真っ当な主張だ。
身内でさえこの調子なのだから初対面の依頼人だって、この人に任せて大丈夫なのだろうかという不安を抱くに決まっている。ただでさえ開業したばかりで示せるだけの実績がないのだ。来客みんなに不審を抱かれていたら、いつまで経っても辛夷探偵事務所には依頼がやってこない。
だからせめて少しでも外見を整えて、格式高く格好を付けないといけない。探偵の服は助手が見立てて来たものだ。
探偵がそういった見掛け倒しや権威を嫌っていることは知っているけれど、これも探偵事務所を存続させるためなのだから致し方ない。
それはともかく今の最優先事項は、探偵を目覚めさせることである。助手は夢の世界に最大限配慮して、優しく声を掛けるという方法を採った。しかしぐっすりと眠った探偵は起きない。揺り動かしても駄目だ。
困り果てた助手は少し悩んだあと、すやすやと眠る探偵の鼻を摘んだ。寝顔が途端に苦しげに歪んで口が開く。フガと寝息が止まった。顔を左右に振られても、助手は摘んだ鼻先を放さない。
「ぷぁ! 息苦しい」
探偵はとうとう、鼻先を摘む手を払い退けながら飛び起きた。
ぺちんと小さな音が鳴る。大人の男の骨の硬さに、少女の手がぶつかったときの音だ。赤くなった手を胸に抱えて、誰がこんな酷いことをしたんだという顔で睨む。
犯人などいない。これは不慮の事故である。
「先生、おはようございます。ぐっすりと寝ていらっしゃいましたね」
探偵は気まずさをごまかすように、大きく咳払いをした。
「おはよう。全く君のせいで鼻に妙な痕がついてしまうじゃないか」
「それよりも頬に付いたクッションの布目を気にしてください。そろそろ準備しないと依頼人が来てしまいますよ」
助手は探偵が起きたことを確認すると毛布を片付けて、キッチンに消えた。紅茶を淹れるためにお湯を沸かしはじめる。仕事の前に事務所を紅茶の香りでいっぱいにするためだ。美味しい紅茶は探偵が事務所を開くときの絶対条件だった。そして気分屋の探偵が機嫌を損ねない美味しい紅茶を入れられるのは、助手だけなのだ。
忠実なる助手が探偵を起こした時間は完璧で、身嗜みを整え終わったあたりで、ドアがノックされた。
待ち合わせの時間ちょうどだ。
助手はぴったりの時間にお茶が提供できるように、カップにお湯を注いで温めはじめた。
実際のところ、依頼人はしばらく前に事務所の場所に辿り着いていた。せっかちというよりは生来の、あらゆることを計画するときに不測の事態を思わずにはいられない臆病さに因るものであった。
列車が遅れたらどうしよう。乗り換えを間違えたらどうしよう。目的地がわからずに町をうろついて交番に泣き付く羽目になったらどうしよう。そんなことを考えながら、予定通り運行される列車に計画通りに乗り込んで最寄駅に着き、商店街の只中にある事務所を見過ごすということもなく、待ち合わせの一時間ほど前に事務所の場所を確認した。
しかしまだ中に入るわけにはいかず、一階の不動産屋の前で物件を確認するふりをしてしばらく建物の前にいた。だがいくらなんでも訪問するには礼を失する早さであることが、その場から離れる踏ん切りを付けさせた。
万一、中から人が出てきて顔を見られたら、探偵は探偵らしい記憶力で事務所の前でうろうろとしていた不審者の顔を覚えているに違いない。そうなったらいざ探偵事務所を訪れたときに「おや、小一時間ほど前に下で見た顔だ。よもや時間までずっとあそこでもじもじしていたわけではあるまいな」などと思われてしまう。それは想像するだに耐えがたい慚愧を催すだろう。
喫茶店を見付けてコーヒーを頼みながら時間を潰し、ちいとも腰が落ち着かない四十五分の休憩のあと、そろそろ許されるだろうと思い会計をして店を後にした。それでも事務所には約束の時間の五分前に着いた。
帽子と外套を脱いで、二階のドアの前に立つ。建物自体も比較的綺麗だが、真新しい気配のするドアだった。中が気になって仕方がなかったが、耳を押し当てるようなはしたない真似はしなかった。腕時計を睨みながら待つ。
長針が真上を向いたきっかり二時に、ノックをした。
ドアが開く。
ふわりと紅茶の匂いが漂ってきて、昂った神経は僅かながらに宥められた。
出迎えたのは背の高い男だった。仕立てのいいベストを着て糊の効いたシャツに身を包み、革靴は磨き上げられている。服装は整っているが、野放図に広がった癖毛が頭の上で鳥の巣を作り全てを台無しにしている。ボサボサの長い前髪は目元まで伸び口元には髭もあった。
身長が高く目元が見えない男が威圧感を持って目の前に立ちはだかり思わず一歩後退る。男は困ったように首を傾げながら手を伸ばし掛けて止め、思い直したように体を引いて空中で彷徨わせていた手で事務所を示した。
「佐々木様ですね。お待ちしておりました。中へどうぞ」
外見の粗雑さに反して男の声は柔らかく、丁寧な動作と言葉遣いをしていた。瀟洒に整えられた事務所の、座り心地が良さそうなソファに案内される。執務机と、それより簡素でこぢんまりとしたデスクが壁際に一つ。あとは天井まで届く高さの戸棚と本棚が壁際に置いてあった。部屋は奥に続いていて、どうやらそちらは給湯室のようで中は見えないが紅茶の匂いが漂って来ている。
誰かの書斎に迷い込んでしまったような錯覚を覚える事務所だ。
「ようこそ、辛夷探偵事務所へ。僕はおが、辛夷 みちるです。以後お見知り置きを」
人と話すのが得意ではないのか、探偵はつっかえながら挨拶をした。ぎこちなく握手を交わす。本当にこの人は大丈夫なのか、という不安が胸を掠める。
辛夷というのが人の苗字なのだろうという予測はできていたが、読み方の検討がつかない事務所名をようやく正しく理解できた。
そのタイミングで奥から少女が出てきて、ソファに座る二人の前に紅茶を置いた。ずっとこの部屋に満ちていた心安らぐ匂いは、彼女が用意していた紅茶だったのだ。お盆の上に用意されたティーカップは三脚。最後の一脚は彼女のものだったようで、二人の前のローテーブルではなく壁際のこぢんまりとしたデスク運ばれた。お盆を片付けると、ミルクと砂糖をたっぷり入れた紅茶を飲みはじめた。
「それで、本日はどういったご相談でしょうか」
「あ、はい。申し遅れました。私は佐々木 由一と申します」
休日だから名刺など持ち歩いていない。探偵の名刺を受け取ったが自分の分は渡しそびれた。依頼内容を話すように促されているのはわかっているのだが、お茶を運んできた少女が気になって仕方がない。まるで事務所が自分の家であるが如く寛いで椅子に腰掛けているが、一体、彼女は誰だろう。なぜここにいるのだろう。
ここで雇われているにしてはずいぶん若いし、辛夷探偵の娘にしては大きい。
「失礼ですが、彼女は?」
わからないことをそのままにすることはできず、相談より先にその話を切り出すことにした。このままでは話をしている間中、ずっとそちらをちらちらと見てしまうだろうし、家に帰ってからも彼女は一体何者だったのか気になってしまうに違いない。
探偵は視線の先を辿り、あぁと納得したような息を吐いた。
「僕の助手です」
「助手」
言われた言葉を鸚鵡返しする。なるほど、探偵といえば助手が付き物だ。実際に助手というのが何をしているのか今まで知らなかったが、こんな風にお茶を出して探偵事務所の片隅に待機しているものなのか。
辛夷探偵は声を潜めて続けた。
「実は彼女はここのオーナーの孫娘でしてね。世の中というものを学ぶのに、探偵の扱う事件はちょうどいいと預けられているのです。あとは僕に家賃を支払い続ける能力があるのかを判断する可愛いお目付役です」
「はぁ」
私は曖昧に頷いた。
探偵にどれくらいの収入があるのか想像ができないが、少なくとも事務所の内装や服の趣味、紅茶の品質を見るにそこまで悪くないように思える。
関係ない子供に話を聞かれているというのは居心地が悪いものだったが、事務所の持ち主の孫娘ということであれば、そこには社会人ならば推して測るべき力関係があるのだろう。
幸い今回の相談事は、子供に聞かせて障りがあるような内容ではない。
「脱線してすみませんでした」
「いえいえ、お構いなく」
「それでですね、依頼したい内容というのは猫探しなんです」
「猫探し……ですか」
探偵はお馴染みの顔をした。お馴染みというのは一般的という意味ではなく、ここに辿り着くまでに佐々木が何度も目にした顔だ。
金を払ってまでそんなことをする意味があるのか、そんなもの解決できるわけがないだろう。電柱に張り紙でも貼っておいたらどうだ。依頼をされたところでやることはポスターの作成と近隣の捜索。自分で周りを探す以上の成果は得られないですよ。
そういう顔である。
はっきりと言葉で言われるときもあったし、断られるときに遠回しにそれを悟らされることもあった。共通しているのは飼い主ご本人が探しても見付からないのであれば、難しいという回答である。
この探偵もそうなのだろうか。もう心当たりは他にないのだ。不安を覚えながらも佐々木は続ける。
そも、猫を探すというのは現実的な行為なのだろうか。猫というのは気ままな生き物である。なわばりの中を自由に移動し、それを飼育していて更に言うなら所有しているなどと思っているのは人間だけだ。こちらで餌をもらいあちらで撫でられ、そうかと思えばその隣の家でも餌をもらっている。どこか他の家に出掛けて気が済んだらひょっこり帰って来ることもあれば、そのまま他の家に住み付いて戻って来ないこともある。出掛けたときに不幸に遭って、戻って来ることができないということも考えられる。
郊外に家を持っていれば、庭先に知らない猫が迷い込んで来ることはざらにある。可愛がっている内にダンボールに毛布を敷いただけの簡素な家ができ、餌の皿が置かれ、首輪が付いていなければそのうち居座ってしまうものだ。
猫が家に戻って来ないとはそういうことだ。
それでもなお佐々木 由一が探偵に猫探しを依頼するのには、ちゃんとした理由があるのである。
佐々木家で飼われていた猫はレンゲという。生後六ヶ月の子猫である。生まれてからまだ間もないから、佐々木家にやって来たのもごく最近だ。
この子猫、完全室内飼いで外の世界を知らない。生家にいたときは元より、もらわれて来てからも野外に出したことは一度としてない。箱入り娘である。家に来たばかりであるしまだまだ遊びたい盛りで悪戯をするから、目が届く範囲でゲージの外に出し徐々に部屋に慣らしている最中だった。
当然、いなくなった日もゲージの中にいたはずだった。当日は雨で、窓を開け放つような陽気ではなかった。レンゲがいたのはリビングで、潜り込めるような通風孔や換気扇の類は付いていない。平日だったので佐々木は仕事で家を空けており、彼の妻も用事があって外出していた。
帰宅したとき、当然ながら玄関の鍵は閉まっている。リビングのドアも閉じられていたし、ゲージも閉めてある。それなのに中にいるはずの猫だけが忽然と姿を消したのだ。
真っ先に、まだ小さいからゲージの隙間から脱走したという可能性を考えた。しかしそこから先、リビングのドアを開けて脱走し人目を盗んで玄関から外に出たなどということがあるだろうか。
つまりこれは単なる猫探しではなく、閉ざされた部屋から猫だけが消えた密室事件なのである。
話を聞き終わった辛夷探偵は顔の前で指先を組み、じっと遠くを見るような顔をした。後ろで少女がくすと笑った気がした。たとえ子供に笑われようと、佐々木は真剣だった。
一緒に生活した時間は僅かでも、家族に迎え入れると決めた子猫である。それに密室から消えた子猫が消えたのなら、家の中に第三者が入り込んだ可能性だってある。見過ごすことはできなかった。
「わかりました。その依頼お受けしましょう」
辛夷 みちるは力強く請け負った。
依頼人が帰ったあと、助手は紅茶を淹れ直した。
佐々木 由一から聞き取った内容は助手が几帳面にノートにまとめてある。探偵は執務机でレンゲという猫の写真と共にそれを読み込んで思案している最中だった。それが事件資料でなければ、年端もいかない少女がノートに向かっている様は勤勉な学生にしか見えない。
彼女がこの事務所の頭脳である探偵 辛夷 みちるである。
「猫探しで密室事件。初仕事はいかにも探偵らしい内容になったね」
実のところ、この事務所はできてからまだ一ヶ月も経っていないのである。飲食店や小売店と違い街角で見掛けたところで「おや、こんなところに新しく探偵事務所ができている入ってみよう」とはならないもので、事件は起こっていませんかとビラを配りにいくのも不謹慎だ。
開業してから長らく暇を持て余していたみちるは、ようやく舞いこんだ仕事に胸を躍らせながら、キッチンに立つ男に話し掛ける。依頼人に、辛夷 みちるだと名乗った彼は本当は招霊 いおりという。 みちるを献身的に支えている、紅茶を淹れるのが得意な助手である。
ミルクとカップを温めている間に、ティーポットの中で茶葉が踊りながらゆっくりとほどけていく。準備ができると執務机に運んで来た。
「お断りするかと思いました」
路地裏や縁の下や庭木の影を覗き込んで猫を探すような仕事は、インドア派の探偵向きではない。
「しないよ。見付けてあげなくちゃ可哀想じゃないか、猫ちゃん」
長い付き合いというほど互いを深く知っているわけではないが、みちるが接尾辞を付けて呼ぶほど猫が好きだとは知らなかった。
「それにしても」
みちるは手元のノートから目を上げ、ティーポットを運んで来たいおりがカップに赤く透き通る液体を注ぎ入れるときの滑らかな手付きを見物する。無骨な指先が繊細なティーカップを扱い、定められた一連の動きを繰り返す。
「誰がオーナーの孫娘だって?」
今まで少しも揺るがなかった助手の手が止まった。気まずそうに探偵にちらりと目をやり、手元のカップに視線を戻すと淀みなくみちるに紅茶を差し出した。
「だって、それは先生が言い出したんじゃないですか」
みちるは肩を竦める。
「そうだよ。私が探偵だなんていっても誰も信じないし依頼もしてくれないからね」
いおりはみちるの才能を疑ったことは一度もない。しかし世間の人たちはそうではない。特に金銭が関わることになると人の目はシビアになる。こんな年端もいかない少女に、探偵なんてできるわけがないと考える。その認識を覆すには、とにかく依頼を受けて実績を積み上げ、彼女の実力を証明するしかないのだ。
だからこの事務所を開くとき二人は相談して、みちるは探偵の助手として振る舞いいおりが探偵として振る舞うことに決めたのだ。そうすれば、くだらない押し問答をする時間を短縮できる。それでも助手として働くにしても若すぎるみちるの存在は、説明に苦労するのだが。
「早く先生の名が知れ渡って、こんな小細工を必要としない日が来ることを願って止みません」
尊敬する探偵の名を背負うというのは、内向的な助手には荷が勝ちすぎている。早く降ろして自由になりたいのだ。
「二人で行動していれば、どちらが探偵で助手かなんて大した問題じゃないよ」
「そんなことはないですよ。依頼人にバレないようにこっそり先生とやりとりするのも楽じゃないんですから。僕が探偵のふりをしていると、長話の途中に先生にお茶のおかわりを淹れることもできません」
みちるは実のところ、今の状況が嫌いではない。依頼人を騙すのは気が引けるが、悪戯を仕掛けているようで面白いし、正体を人に憚る存在になった気分を味わえる。
しかし放っておくといつまでもいおりの愚痴が続きそうだったので、パンと手を叩いて彼の話を遮った。
「さて、いおり君、事件を解決しよう」
身の丈に合わない執務椅子の上で、みちるはにっこりと微笑んだ。