よろずの鬼とたたりの神

1,葦原

 夕日が落ちる大地の際まで一面に続く葦が、ざらざらと音を立てる。寂寞たる風景は神の守りの外側、人の住めない領域に広がっている。
 釣竿を構えていた男は、吹き渡ってきた秋風の寒さに着物の襟を引き寄せた。糸は池に垂らした時から、ピクリとも動かない。傍らに置いた魚籠は今だに空っぽだ。実のところそれは、買って以来一度も魚で濡らしたことがない。
 ここは国の境目。池を越えれば妖の棲まう土地。見渡す限りの葦原だ。
 カポ、と水の面を叩く音がした。池に波紋が広がった。魚が跳ねたのか。それにしては大きな音だった。波紋の中心あたりをじっとみていると、濁った水底から黒い頭が滑りでた。
 縦に長いシルエットの水鳥だ。すいすいと気持ちよさそうに池を泳ぎまわり、チャポと音を立ててまた水面下に潜り込む。
 座り込んだ尻の形に草が生えなくなるくらいに池に通っているのに、ついぞみたことがない鳥だ。
「ナナカマドに引っ掛けないで欲しい」
 突然、横合いから声をかけられ、飛び上がった。ここは葦原と国の境目である。釣れない魚に糸を垂らす物好き以外の人間が、いるなどと誰が予期できただろう。
 いつのまにか目元に朱色を差した、長い髪の若者が隣にいた。芸人じみた派手な装束をだが足元は旅慣れた装いをしている。
「かまどが、なんだって?」
 言葉の意味は全く頭に入ってこない。早鐘のように打つ心臓に手のひらをあてて宥めながら聞き返す。貴様さては化け物か、と誰何したいのをぐっと堪えた。
 どこを見ているのやら焦点が定まらない目を向けられて、怯む。
「いや、だから。あなたのその」
 言いながら、白い指先を釣竿に向ける。
「釣り針を、私の相棒に引っ掛けないように気をつけてくれ、といったんだ」
 噛んで含めるようにゆっくりと言い終わると、再び遠くに目を向ける。地平の果てまで変わらぬ景色の一体どこに見る場所があるというのだろう。
 相棒などどこにもいはしない。池の辺に立つのは、自分と相手のただ二人。
「相棒なんて、どこにいる。流石に俺も人は釣らんよ」
 もしや人を惑わす妖物か、あるいは気狂いか。薄気味が悪い人物だった。
「いや、相棒は人でない、鳥だ。あのカイツブリが私の相棒、ナナカマドだ」
 指差した先には、先ほどの水鳥が浮かんでいる。あの流線型の黒っぽ鳥はカイツブリというのか。そしてナナカマドと名付けられているらしい。
「そうかい」
 それは気ままに池を泳いで回り、水中に潜り込んではまた顔を出す。たまたまそこに居合わせた野鳥にしか見えなかった。やはりこの男どこかおかしいに違いない。言葉を交わした相手すら、狂気に招くような不安定さを持っている。
 蓋し葦原に棲まう人を食らう妖物とは、この若者のような存在に違いない。
「なら、引っ掛けないように今日は仕舞いにしとこうか」
 早々に立ち去るべく、荷物を纏める。
「良いのだろうか。得物がかかりそうなのに」
 申し訳なさそうに、眉根を寄せる。
「仕方がないさ、今日は坊主だ」
 今日どころか、昨日も一昨日も明日も明後日も魚なんて掛かりはしない。
「そもそも、この池に魚なんていやしない」
 突然に声を低くした。ピタリと帰り支度をしていた手が止まる。見つめ返すとふふと妖しく微笑む。胡乱な雰囲気で気がつかなかったが、その面立ちは驚くほどに整っている。
「人を釣らないというのは、嘘だろう。目当ては魚じゃない。通りがかる旅人から荷物を奪うのを生業としている」
 ここは国の境目。結界の際。葦原を越えようとしなければ、足を踏み入れることなどない。妖物の領域を越える旅は、命の危険が危険が伴うものだ。
 旅に出たきり二度と戻らない人間など、珍しくない。途中で何人か消えたところで、それが国を出る前か後かなど誰が気にかけるものか。
「だったらどうする旅人さん」
 魚籠と荷を下ろし、釣竿を握り直す。
「殺される前におさらばするか、そうでなければ首でも刎ねよう」
 背負っていた荷の中を下ろすと、その中から刀を取りだし構えた。こんな人気のない場所で、人の悪事を暴き立ててくる無鉄砲。よほど腕に自身がなければできない。
 どんな使い手かと思ったが、まるで素人だ。持ち方一つなっちゃいない。あの細腕では振り回したところで、怪我をするのがオチだろう。
 踏み込み釣竿を振るって、男の手から刀を弾き飛ばす。抜き身の刃は手の中をあっさり離れて宙を舞い、頭の上を飛び越えて池に飛んでいった。
「首、刎ねられんなぁ、あんたの方だぜ」
 釣竿の持ち手を捻り、仕込み刀を抜き放つ。こんな魚も棲まない池を、わざわざ浚う奴はいない。今までの大勢と同じく、首をはねて池に投げ込んでしまえばそれで仕舞いだ。
 丸腰にされ若者は両手を広げて、宥める仕草をする。
「やれやれ、物騒な御仁だな。そう思うだろう、ナナカマド」
 池で水音がした。
 さっき跳ね上げた刀が、水に落ちたか。いやそれは最前、耳にした。では今の物音はなんだ。鳥にしては大きい音を立てたものだ。まるで水の中から何かが這い出てきたように、聞こえなかったか。
 目の前の得物を逃さぬように警戒しながら、ちらと池に目をやる。視界の端に男の姿と抜き身の姿。
 男が最期にみたものだった。
 池の中から這い出てきた男は、目にも止まらぬ速さで刀を横に一閃した。肉と骨を断つ鈍い音。まず頭が落ちその後に、力の抜けた体が倒れた。
「ぽぉんと、景気良く首が飛んだ」
 死んだと思うまもなく命を散らした男を見下ろし、笑う旅人の名は春楡といった。陰惨なる光景をけらけらと笑い飛ばしたあと、刀をもつ影をみる。
「少しは気が晴れたかな?」
 刀を構える人影は、焦点の定まらぬ目を死んだ男の方に向けていた。時代がかった服装は旅芸人じみた春楡の隣に並ぶに相応しい。身につけた上等な着物が濡れ、血を浴びるのも気にした様子がない。
「晴れるものか。七度この身を焼かれてもなお、溜まった恨みが燃え尽きぬ」
 定められた台詞を読み上げるように、陰気な声には感情が籠らない。ただ惚けたような瞳の底で燃えている感情は確かに憤怒であった。
 その輪郭が徐ろに滲んだ。手から刀が滑り落ち、池に沈む。
 薄れて消えたあと最後に残ったわだかまりが、カポと水面を叩いた。
 濁り赤く汚れた水底から、水鳥が滑りでた。きゅるるるると喉を鳴らす。甲高い声は軋む車軸の音にも似て、どこか人を不安にさせた。
 春楡は人影が沈み水鳥が浮かび上がったその場所から、刀を拾い上げる。
 都合よく、血は池の水で洗われたようだ。
「こんなに濡らしたら錆びてしまうな。街に腕のいい研ぎ師でもいるといいんだが」
 春楡の言葉は全くの独り言だった。
 どこまでも続く枯れ葦の原に居るのは春楡のみで、人の影などありはしないのだ。
◆◇◆
 神の治める土地の外は、葦原と呼び習わされる。多くが葦の生い茂る湿地であることに由来するが、実際は山や森や草の生えぬ荒野、実に多様な植生と地勢を含む。興味を持った誰かが調べ実態を膾炙しない限り、その場所は漠とした印象の中で葦原と呼ばれ続けるのだろう。
 国の外である葦原には、神の守りも法の規範もない。人が住まうに適しない土地にわざわざ踏み入るのは、よほどの物好きか訳ありと決まっている。歩いたところで出会う相手はよくて旅人で悪ければ無法者だ。
 あるいは人の理を知らぬ異形か妖物。
 人の背丈を上回るほどに伸びた葦は秋に至ってそのまま立ち枯れ、風に揺れて漣のように鳴っている。傾きかけた太陽は道に落ちる葦の影を徐々に長くして夜に近づき、物寂しさを強めていく。
 油断をするとすぐに足元を掬われる土地だ。わずかに乾いた地面を見つけて、歩きやすい場所を辿れば、それがそのまま旅人のゆく街道となる。
 そんな幽けき道を草間に頭を見え隠れさせて歩くのは、春楡という旅芸人だった。
 足元を確かめながらしっかりと地を踏みしめていたが、どこかで聞こえた水音に顔を上げる。周囲の様子などろくに見えはしないが、どこかにナナカマドがいる。
 暗い羽毛に赤い首、短い尾羽に黒い弁足。カイツブリという水鳥は孤独な旅の唯一の道連れであり、それにナナカマドと名を与えていた。
 気ままに水を滑るばかりの相棒を、人はただの野鳥だという。紹介すると必ず哀れなものをみる目を向けてくる。しかしナナカマドは必ず近くにいた。姿を見せないまでも時折、こうして水音で居場所を知らせ安心させてくれる。
 日が沈みかけていた。そろそろ今晩の宿を探さなければいけない。体を横にできるくらいの乾いた地面を見つけなければ、このまま道の真ん中に横たわるしかない。幸い人通りのない道の真ん中で横たわったところで、馬に踏まれも牛車に轢かれもしない。だがこうも枯れ葦に囲まれていては、恐ろしくて火も焚けやしない。
 足を早めた春楡の眼前に、果たして一軒の荒屋が現れた。
 国に居れなくなった人間が、外に暮らしを持とうとすることは度々ある。彼らの努力は決して大地に根付きはしない。人の痕跡が残っていても、まず間違いなく中身は空だ。しかしそれらはしばしば、旅人に手を貸してくれる。
 だが、その空き家であってしかるべきのその廃墟に、灯があった。
 もし中に人が暮らしているのなら、旅暮らしが長い春楡も初めて目にする中身のある家だ。だがそんなことがあり得るだろうか。
 ここは人の領分でなはない。魑魅魍魎の跋扈する魔境。中に何かがいたとしてそれは人を誘って食う妖物の類と決まっている。
 身の危険を感じながらも、吸い寄せられるように家に近づく。戸を立ててもなお隙間のできる粗末な雨戸の隙間から漏れる灯は、暖かく旅に疲れた身には抗いがたい魅力を持っている。
 警戒心は、好奇心と無鉄砲に負けた。建て付けの悪い戸をガタガタと揺らすと、部屋の中から情けのない悲鳴が聞こえた。
 囲炉裏を挟んで向こう側に、焦がし麦の肌の色をした男が一人。
 傍に人が入りそうな程の大きな箱笈を置き、その陰に隠しきれない体を隠したつもりでいるらしい。
 そぉと侵入者を窺い見る顔を隠した面紗に「万」の一文字。
 どうやら賊でも妖物でもないらしい。
「金目のものなら差し上げます。どうかどうか、命ばかりは」
 気の毒なほどに声が震えていた。大きな体を小さく丸めて、両手をこする。彼の恐怖が手にした刀にあるのだと気づき、春楡はそっとそれを足元に置いた。
「どうにも驚かせてしまった。私は刀は専門外。手にしているが使えはしない。害する気はない」
 優しい声色で語りかけると、万の文字が少しだけ笈の陰から出た。
「もしやこのうちの方で?」
「こんな家に、人は住めまい」
 荒れ果てた家を見回して、肩をすくめる。
「今宵一晩、夜露を凌げる場所を探していただけの通りすがりの旅の者。ご一緒しても、よろしいか?」
 ようやく彼は荷物の陰からのそりと出てきた。
「そりゃ、情けねぇところ見られちまったな。どうぞどうぞ、あたしの家でなし許可なぞ必要ございやせんぜ。一人でないのは心強い」
 頭をかきながら気恥ずかしいのを誤魔化すように、親しそうに隣の座を勧める。
 長く掃除の手が入っていなかった家は、草履を脱ぐのをためらうほどの土ぼこりが溜まっていた。相手も土足のままなのをみて、春楡もそのまま上がり言われるままに男の隣にゆくと、わざわざ春楡の分まで敷物を敷いてくれていた。隣にゆくと男は想像以上に上背があり、腕も太いことがわかった。
 どこの生まれともわからぬ血筋を感じさせる体格と肌の色。顔立ちは面紗に隠され判じようがない。しかし身の上の胡乱さは春楡とて同じであり、出身がわからぬ程度さしたる問題ではなかった。
 なんとか形をとどめている自在鉤には鉄鍋がぶら下がり、良い匂いをさせている。空腹が顔に出ていたのか、椀に鍋の中身を取り分けてくれた。
 温かいものを飲み込むと体が芯から温まり、旅の疲れがほぐれる。
 夜風を凌ぐ夜具もあるようで、大荷物の中から次々と出てくる至れるつくせりの品に、春楡は舌を巻いた。
「いや、ここまでしていただく義理もあるまい」
 世話を焼いてくれるのは嬉しいが、あまりに甲斐甲斐しいので気が咎めた。
「情けねぇとこ見られちまった分、少し格好をつけさせてくだせぇ。そちらもよければあたしが見ましょうか」
 指差したのは、濡らした後の始末をどうするべきか心得ず、未だ抜き身のまま板間に置いてある刀だった。刀の手入れ道具まで備えているのか。
「それは助かる。いや、随分と用意のいいお方だ」
「よろずを名乗っておりますれば、多少のことは。物の用意ばかりは一端です」
 なるほど、あえて尋ねるまでもないことだった。面紗に書かれた「万」の一文字がその証。不可思議な男は、旅の商人であるらしい。
「すると、これは売り物なのでは」
 腰を浮かしかけた春楡を留め、口元しか見せないなりに人が好い笑みを浮かべた。
「払うあてがない」
「押し売りはいたしやせんぜ。単なる親切心です」
 単なる親切で手を尽くしてくれているなど、信じられるわけもない。仮にも商人が無私の施しなど悪い冗談だ。
 刀の手入れができるなら、水に濡れたよりももっと重要な汚れも見えた筈だ。池の水で血を洗っても、脂は落とせない。骨を絶った刀は刃が毀れる。
 気づいてしかるべきことに一言も触れてこないのは、恐ろしいからかもっと別の思惑を持ってのことか。確かめるためにもう少し会話を続けることにした。
「それでは商いが成り立つまい。私の気もおさまらない」
「では御銭以外で。あたしと同じ旅のお方とお見受けしやしたが、芸人ですかい?」
「春楡という。旅暮らしなのも拙い芸が活計の代なのも、ご推察の通り。ただ旅芸人とも少し違う。諸国を巡って神に会い、祈りを捧げるのが旅の本懐」
「へぇ、修験者のお方か」
 感嘆の息が面紗を揺らす。
「そんな高尚なものでなし。神も色々とある。姿なきお方から我々と同じ体を持つお方まで様々。求める祈りも様々。その贄となり御饌となり、ご満足いただくというだけのこと」
 彼らに必要な祈りとは、信仰心というただの心の持ちようであり祝詞であり歌であり舞であり儀式であり体そのものでも、ある。対する神によって面を変えながら、諸国を巡る歩き巫女。
 必要から身につけた技の諸々が、暮らしの助けにもなっているので旅芸人が生業と言われればそれも間違いではない。
「神さんたちにも欲はあるってことですかい?」
「欲とは。そういう言い方をすると、神がひどく卑近なものに思えてくるな」
 言われてみれば、春楡が捧げる祈りとは生きるために必要な糧ではない。ただあると満たされるというためだけに求められるのだから、嗜好品と同じだ。人が酒や色を求めるような欲と同じと断じてしまうことだってできる。
「こりゃ、いささか不敬でしたかね」
「なに、構いやしない。神の懐の内ならいざ知らず。ここは葦原、聞くものもなし。私が黙っていれば、それでしまいさ。よろずのお方の言う通り、あれも欲には違いない。特に肉の体を持ったお方は、我々と欲求が近い」
 その激しさを思い出し、春楡は熱いため息をついた。
 ここから最も近いのは戌の国である。よろず屋がどこから来たかは知らぬが春楡はそこを発ったばかりだ。国を治める犬神は人と同じ肉の体を持った神。そして穢れも欲も厭わない存在である。
 その神事は、ひどく甘やかで規則的に揺れる。
 春楡は古くから生活に添う樹木から名をとった。美しい花を咲かせるでもなく、四季を通してさしたる見所のない地味な広葉樹だが、皮から根まで余すところなく役に立つ。あまりに古くから暮らしの中に添うていたため、一つの文化の中でさえ吉凶が定まらず様々な顔を与えられている。
 その身に成せることならばあらゆるものに用いられ、有りようが一定でない、相手の望みによって面を変える春楡には、似合いの名だった。
 骨身に染みた習慣で、ちらりちらりと目を向けてくるよろず屋が求めるものを理解した。だが本人には言い出す勇気がないとみえる。
「人は春楡を色々に使う。火を起こし縄を綯い、根を絞る。揺りかごから棺桶まで、寄り添う。その名を背負ったこの私。あなたも私をとやかくやとお使いになりたいようだ」
 からかう訳ではないが、少し誘いをかけてみることにした。思わせぶりな流し目を向けて、微笑みかける。
「よろずの方、何をお望みだ? これほど世話になってしまった。何を望んだとて、嫌とは言いますまい。よろずに使われる私とよろずを扱うあんたじゃ、似ているようで少ぉし違うな。商売敵でなくて安心した。何しろこんな場所では、人が一人消えるくらい珍しくもないのだから」
 例えば国の際にいた男が死人を池に捨てて誰にも見つからなかったのと同じ。あるいは春楡が、ナナカマドに切り捨てられた男をそのまま池に打ち捨ててきたのと同じ。死体が一つ二つ増えたとして、大した問題ではないのだ。
「商売敵なんてとんでもない。あたしゃただのよろず屋、この背に負うた箱一つが、商売道具のちっぽけなもんでございます。あたしゃよろず屋、旦那がよろず。仲良くさせておくんなせぇ」
 飄々と答えた後、彼は意を決したように春楡に向き直る。
「望みは少し、ほんの少しその身を喰ませていただきてぇと、ただそれだけでございます」
「ふふ、そうか、この身を望まれると。私は神に祈りを捧げるのが生業。神のための贄を味見しようとは、剛毅なお方だ」
 春楡は薄く笑って、髪を結わえた紐を解く。長い髪が肩に落ちかかり、後ろ姿だけは女のようになる。
 遊女がする戯れのように、赤い紐を輪にして相手の首にかけて腕の中に引き寄せながら後ろに倒れる。体の横に手をついた男の体が緊張で硬い。
「あんた対価に何をくださる?」
 神であればこの身に加護を、人であれば金銭を代わりおいていく。ではこの人とも言い切れぬ葦原の商人は、一体何をくださるのだろう。
「あたしにゃ神も何もありゃしませんや。欲しいもんは欲しい。人ってのはそう言うもんでさ」
 肌を撫で、その手触りに満足するようににんまりと笑った。
 葦原は妖物の領域。そこを何事もなく越してくるものが、人であるはずがない。なのによろず屋は人を自称する。
「お望みのままに。あたしゃよろず屋、何なりと」
「求められることはあっても、与えられることはない。年甲斐もなく胸が踊る」
 さて、何を望もうか。
 己の望みを見つめ直すのは実に久しいことだったが、答えはすぐに見つかった。
「激しく、野蛮に、獣のように。してくれるか?」
 顔を隠したその耳元に口を寄せると、甘やかに囁く。着物の合わせに手を差し入れて、下帯を解いた。するりと脱ぎ去り、よろず屋の手をとって太ももに間にそっと招き入れる。
 ぐいと脚を掴んで広げた力の強さに、興奮で背筋がぞくりとした。
 薪を焚べる者のいなくなった火は徐々に細っていく。視界が悪くなっていく中、触れたものは逞しい身体に相応の硬さと太さをして脈動している。
 気が逸るまま春楡は、よろず屋の体を求めた。
 薪の弾ける音の代わりに濡れた水音を響かせながら、互いを激しく貪った。
 口づけを乞うて頬に手を添えた顔に面紗がない。しかし、明かりが落ちた暗がりの中で互いの顔は見えない。
 何度かの絶頂の後、気だるく満足げな息をついてよろず屋の体が離れていく。手探りで荷を漁る物音がしたあと、再び部屋が明るくなった。
「腹の中を綺麗にしましょ」
 いそいそと用意をするその顔は、既に面紗で隠されていた。
「よろずのお方は用意がよいので助かる。腹の底に腎水を入れたまま歩くのは、切なくっていけない。そのうちに溢れてきてしまう」
 こんな風にと脚を開くと、太い物を何度も突き込まれ玩具で嬲られ緩んだ穴から、余韻がこぼれで火の色をてらてらと反射した。
「春楡の旦那ぁ、困ります」
 よろず屋は口角をほんの僅か歪ませ、溜息をついた。用意した道具をおき今一度春楡の足に手を這わせ、撫で上げていく。
「そんな事をされると、もう一度欲しくなっちまうじゃありませんか」
 褐色の掌が白い膝から太腿、溢れた欲を掬い体の奥へ指を沈める。柔らかさを楽しむように根元まで差し入れると、ぐいと拡げた。
「あたしゃ欲深いんですよ」
「ふふ、熱いお方だ。本当に望むまま与えてくれる」
 中にはいってきた万屋の動きに合わせて身を捩り声をあげる。体が歓びに震えた。
「これは本当は私の欲。よろずのお方と今一度、情を交わしたかった。本当は、知っていなさるんだろ?」
 首に腕を回し、引き寄せて誘う。
 答える代わりによろず屋は、春楡が望むもので身体を満たした。

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