鏡のごとき凪の中で


 幌付き馬車の荷台に乗っているだけの旅は、安全で快適だが退屈だった。景色が視界の奥に奥に流れていく。空をゆっくりと流れていく雲が、鏡のように大地にも映っている。そして馬車の車輪が通った跡が、鏡面に幾何学模様を作りながら波紋を広げていくところだった。
 馬車から下を覗き込むと、自分の顔が水面に映っている。
 ここは大昔に海だった場所だ。大地の形が大きく変わり、取り残された海は干上がって真っ白な塩の結晶だけが残った。雨季だけその表面に水が張り、ひとときの間大地を鏡に変える。
「今年は雨季が早かったんだな」
 湖を横断する渡し馬車に揺られながら、シャイラスは誰にいうでもなく呟いた。
 硬く平らな塩の結晶の上をいく馬車は、揺れも少なく快適だ。
 乾季にここを渡ろうとすると、真っ白い塩の結晶は照り返しが激しくて目を保護するものがなければ視界を失ってしまう。少し前に行商人に絶対に必要だと勧められて購入した覆いは無駄になってしまった。そこを出発したあたりから雨が降り出し、街にたどり着く頃に湖は鏡になっていた。
「でもおかげで素敵なものが見れたね」
 隣に座るアクルは、空に挟まれるような幻想的な光景を見飽きることなくずっと見つめている。
 外観は宝石のように美しいが、この湖は対岸にある二つの町の生活の手段になっている。内陸において塩は貴重なのだ。二つの町はかつて戦争で塩湖の所有権を争ったという。今では中心で等分することで合意し、他の人間が勝手に採掘することがないように周辺を厳しく警備している。
 だから湖を渡るには日に一回、町から出ている渡し馬車を使うしかないのだ。
 太陽は赤く熟しながら地平線に近づき、世界を染めていく。それはこの世のものとは思えない光景だった。
 進行方向に目を向けると夕日と、夕日を映す湖面を背景に黒々と浮かび上がる四角いシルエットが見えて来ていた。木組の簡素な建物だ。その両側にポツポツと杭が立ち、空に縫い目をいれたようになっている。
 あれが湖のちょうど中間地点で突き立てられた杭は、湖を二分するものだ。
 かつて海だった湖は広く、一日では渡りきることはできない。あの小屋で一夜を明かすことになる。渡し馬車を利用する人間の休息場所であり、見張り小屋でもある。二つの町の人間がそこを管理していて、お互いを見張りながら湖を監視している。
 この美しい湖には、どこかに人の血が染み込んでいて争いの歴史が湖に縫い目を入れているのだ。
「綺麗なだけじゃ、済まないんだね」
 アクルが寂しそうにポツリと呟いた。
 雨季でも水に沈まないように小屋は床が高く、過去に水位がそこまで達したであろう場所にいくつも白い線が残っている。階段を登って小屋に入ると二人の男がいた。それぞれ赤い腕章と白い腕章をつけている。赤い腕章をつけている方は、出発前にも見かけたからあれがそれぞれの町の所属を表すものなのだろう。
 二人はシャイラスとアクルの顔を見ると、ぱっと顔を輝かせた。
「いらっしゃい」
「おお、よく来たな。寝床はその辺から好きなやつ使いな。荷物はここに置いておくといい」
 彼らは焚き火台の上で食事のための火を起こしている最中だった。
 中にはいくつかハンモックが吊るしてある。あそこが今日の寝床だろう。
「そうだ、ちょっと手伝ってくれんか」
「おい、お客様に手伝わせるなよ。金払って来てんだぞ」
「あ、いえ大丈夫ですよ。一日座ってただけで、体が鈍ってるんで」
 シャイラスは荷物を置くと、肩を回した。
「あ、私も動けますよ」
 外の景色が見える位置のハンモックを吟味していたアクルは、二つに結んだ髪を跳ねさせながらくるりと振り向いた。
「よぉし、お嬢ちゃんはそっちで飯の準備を手伝ってくれ。兄ちゃんはこっち……とその前にこの靴に履き替えてくれ。あと金物は先に取っておけよ、錆びちまうぞ」
「本当にいいのか? 手伝いがあるのはありがたいが、外を見ながらゆっくりしててもいいんだぞ。ここの景色は珍しいだろ」
 男二人はテキパキと二人分の長靴と、アクルのためにはエプロンを用意した。
 二人のやりとりは息ぴったりで、互いを監視するような鋭い視線や緊張は感じられない。まるで長年一緒にいる友人のようだ。少なくとも彼らと一晩ここで過ごすシャイラスとアクルに取って、それは歓迎すべきことだった。
 アクルは焚き火台を覗き込む。塩気が染みた薪があるのか、赤い炎はときどき黄色く爆ぜた。炭ができて火が落ち着いたら、スープを作る。火を用意している間に、食材を用意するのがアクルの仕事だった。湖の只中ではあるが塩分濃度が高すぎるこの場所に水産資源はない。アクルたちと一緒に馬車に乗ってもちこまれた野菜と肉がスープの具だった。周りは全て塩だ。味付けには不自由しない。
 シャイラスはもう一人の男と協力して、テーブルと椅子を外に出した。なぜかそれらの足には、外の基礎柱にあったのと同じ白く塩の跡が残ってる。
「何で外に?」
 まだ雨季は始まったばかりで水深は数センチ程度だが、ここは湖のど真ん中である。
「そりゃ、せっかくお客さんがいるからな。昼もいいがここは夜も景色がいいんだ。外で食う飯は最高だぞ」
「なるほど。楽しみだな」
 机を持って出ると、男は外で騎獣の世話をしていた御者に声をかけた。定期的に通る彼も男たちは知り合いらしかった。
 陽が沈んだ空は茜色と群青のグラデーションに染まり、夜の色の中に輝きが強い星がぽつぽつと見え始めていた。五人分の椅子を用意し、ランプを灯す。準備が終わる頃、中から鍋を持った男とアクルが出て来た。
 長靴に履き替えて湖に降りる。テーブルにスープと器、パンと液体バターの壺を並べると夕食がはじまった。大人たちは酒を飲む。その雰囲気はやはり友人同士にしか見えない。
「監視小屋だから、もっと物々しい警備をしているのかと思った」
 男たちはそうだなぁとしみじみ顔を見合わせ、やがて笑い出した。
「確かになぁ。人が二人いりゃ喧嘩になるし、国が二つあれば諍いになる。そういうもんだ。でも、何十年も何世代もずっと喧嘩をしてるっていうのも難しいんだ」
「こんな風に毎日一緒に飯を食べて酒を飲んでいるとなぁ。敵とか味方とか、些細なことだ」
 男は酒を煽り、背もたれに体重を預けて椅子を傾けた。
 天井には星が川を作り、水面にもそれが映じている。湖の上にテーブルを並べる五人はまるで星空の中に、浮かんでいるようだ。世界にはこの五人以外のものは存在しない。
「なるほど」
 争いも、歴史も、どうでも良くなるくらい美しい景色だった。

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