鮮やかな黒


 東京から新幹線に乗る。地元の交通機関は既に最終便を過ぎているので、降りた駅で一泊して朝早くから在来線に乗り換えた。電車内で乗合タクシーの予約を取る。定期運行のバスなどとっくに廃れて久しい故郷は東京かあるいはその近郊の多少の緑の土地が多い地域に暮らす人間が想像する田舎とは深度が違うのだ。
 俺の名前は漆だ。シツと読む。
 そして実家は漆掻きだ。漆屋の漆。笑えるだろう。
 子供の頃は散々この名前でからかわれて、だからどんなことがあっても稼業は絶対に継ぐことはないと思っていた。逃げ出すように大学進学とともに東京に出た。そのまま向こうで就職して、戻ることはないと思っていた。
 しかし、俺は生来見えてはいけないものが見えてしまう体質らしく、都市部での生活に全く馴染めなかった。自然が少ない場所であればそれらのものは少ないのか。答えは否だ。たぶん同じくらいの数いる。性質の問題なのだ。野にいるものは人にあまり興味がないから、こちらが踏み込まない限りは関わってこない。街にいるものはそこで生じたか、人を求めてわざわざ街に出てきたかのどちらかでつまりは積極的に絡んでくる。
 俺は学費を無駄にしないため、大学の四年間をなんとか耐え切った。というよりも、その四年間で実家に戻る覚悟を固めた。
 実家は漆掻きを生業としているが、父はなぜか塗師にも手を広げていた。本来、掻き師と塗師は別である。どちらかの道を極めるだけでも時間がかかるのに、二つに手を出してやっていけるものなのかと素人ながら思ったものだ。
 当時、家業を継ぐつもりはなかったから、理由がなぜなのかも成り立つのかにも聞きもしなかった。
 果たして俺はどうするのか、決めかねている。そして聞かれてもいない。とりあえずは掻き師として練習を積む事になる。父の代から始めた塗師よりも、掻き師としての方が商売が大きいし、後継を望まれているからだ。
 昼過ぎに実家に着いた。
 金をかけて東京に出た挙句に実家に逃げ戻ってきた俺に対し、恨み言一つない。むしろ歓迎ムードなのが帰って居心地が悪く、特に何も言って来ない無口な父の側が一番居心地がよく、荷物を降ろすと早々に父について軽トラックの助手席に乗って畑に赴いた。
 彼女とは、そこで出会った。
 人ではないということはすぐにわかった。その要望があまりに浮世離れしていて、その異様な風体に父がなんの反応を示さなかったからだ。おかしなものが見えても、俺は口に出さないようにしていた。口に出して存在を確かめたり他者と共有しようと試みたりすると、その存在が濃くなってしまう。見えない風を装うのが一番良い。
 それは人間の女に似た姿をしていた。乳白色の肌と爪と瞳。髪の毛と睫毛だけが闇を吸ったように艶やかに黒い。乳白色は枝から染み出したばかりの樹液の色で、黒はよくよく練り上げた漆の色だった。
 漆の木の化生なのだろう。肌と同じく乳白色の和服に似ているが肌の露出が多い奇妙な着物から覗く肌には一様にびっしりと切り傷が付いていた。滴り落ちた体液が黒く変色して固まっている様は、漆の樹皮の様子と少しも変わらない。ただそれが人の形をしたものの肌にあると、黒い色も固まった血に見えて痛ましさが募る。
 我々の生業は彼女の血でできている。
 それが父の口癖だった。実家にいた頃、俺にはそれが見えなかったから何を言っているのか、わからなかった。漆の樹液を搾り取る稼業がつまり、血を搾りとっているようなものだと、その例え話だとは理解したけれど、なんで指示語が彼女なんだと思っていた。男は自分の仕事を女に例えがちだという、そういうつまらない話かと思っていた。
 彼女をみて、意味がわかった。彼女としか呼びようがないじゃないか。都会暮らしで見る力がやたらと強まってしまったのか、それとも漆職人になる覚悟を決めたものにしか見えないのか、それは家を出る前の俺には見えないものだった。
 漆畑の中に居て父が漆を掻くのに付きまとってふらふらとしている。仮に見えているとしたら、あんな風に素知らぬふりを続けることは俺にはできそうにない。
 仕事を見学していると、父にやってみるかと言われた。
 漆掻きは繊細な仕事だ。まず溝を付けやすいように木の表面を削る。そして樹皮の部分に溝を刻むのだ。これが深すぎると木には致命傷になり、浅すぎれば十分な樹液が採取できない。当然、素人にはできるはずがない。俺は更にまずいことに傷をつける相手が人間の形をして見えている。
 慎重に当てた刃が食い込んだとき、樹液の染み出すのと同時にぽたりと漆の化生が乳白色の涙を落とした。それは俺が刻んだ拙い切り傷から染み出した樹液と同じ色をしていた。それを見た瞬間にもう手からカンナを落として、何もできなくなってしまった。
 父は何も言わなかった。初めてならば、そんなものだろう。そうに違いない。俺は今日東京から戻ってきたばかりなんだ。
 畑にいるのがというよりも彼女の傍にいるのがいたたまれなくて、仕事が終わるまで車に戻って待っていた。
 その晩、まだ届かない自分の布団の代わりに来客用の寝具に包まって、慣れない感覚に何度も寝返りを打った。
 田舎の夜は静か、などということはまるでなく田んぼに囲まれた実家は、ひたすらにカエルの声がうるさい。
 ただ夜の暗さは本物だ。
 携帯の画面を眺めるのにもすぐに飽きて、頭に浮かんでくるのは今日見たこととこれからのことだ。
 俺は家業を継いでいけるのか。
 あの漆の化生はなんだ。
 父が塗師を始めた理由は知らない。物心ついたときには既に仕事として成り立たせていたから、周囲に反対されるとか理由を問うとか、そういう段階はとっくに過ぎていたのだ。
 だが我々の生業は彼女たちの血でできていると語った父の決断の背後には、あの漆の化生があるような気がしていた。長男でもない俺があえて漆の名を授かったのは、父にあれが見えていて俺にも見えないものが見えるとわかったからじゃないか。
 だが見えたところで、うまく仕事ができるわけではない。まともに掻き手が漆を集められるようになるには一年以上かかるとも言われている。なら、仕事にできるくらいまでにするにはどれくらいかかるというんだ。気が遠くなる。それまで俺は彼女の肌に、意味のない傷を刻み続けるのだ。
 俺は何を作る。何ができる。家が築いた商売の基盤はある。だが今までのやり方を踏襲するだけでは、伝統工芸は時代に取り残されて終わる。何か新しいことをしなければ。父が塗師を始めたように。だが俺は一体何を始めれば良い。
 器用とか繊細さとかとは程遠い俺が、あの仕事を身につけられるようになるとは思えなかった。どうせ見えるなら温度とかが見えればよかったのだ。そうしたらショコラティエにでもなれたかもしれない。
 漆の質は掻き手によって違うのだという。だから経験を積んだ塗師は、言われずともそれが誰が掻いた漆かわかるし、仕事によって漆の調合を変える。
 では父はどんな漆を掻くのだろう。塗師も始めたらそれがわかって自分が求める漆を自分で掻けるようになるのだろうか。
 俺はどんな掻き手になってどんな漆が掻きたい?
 いや、求める色は初めからはっきりしている。今日、俺は求める色を理解した。あの黒髪の色だ。彼女の髪の毛のような、睫毛のような、深くて艶やかな色がいい。
 その晩、俺は夢を見た。
 あの傷だらけの女性の、傷だらけの手を取る。全身に刻まれた黒く変色した傷跡は刺青のように美しい。乳白色の指先の、乳白色の爪に漆を塗る。
 それはこの世で最も鮮やかな黒。
 搾り取った彼女の血の色をしている。

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