魔獣の森


魔獣は人を殺さない。ただ、そのあり方を致命的に変えてしまう。
 この森の樹は、どれもこの土地に暮らす誰よりも歳を経ている。人一人では腕が回らないほど太い幹と、人に一番近い場所に生じたもう一つの空のように天を覆う樹間。良質な木材と、季節になれば木ノ実をもたらす。
 かつては、その長く生き人の生活を助けてくれる存在に敬意を込めて、賢者の森とよんでいた。
 今の名は〝魔獣の森〟だ。
 薄暗い森の中の環境は常にしっとりと湿っていて、直射日光も風もなく静かだ。苔むして柔らかい地面を踏みしめると、足の下で小枝が折れてパキと音を立てる。
 その音ですら目立って聞こえるほどに森の中は静かで、はるか上空にある樹冠から降り注ぐ葉擦れの音と、同じ高さから思い出したように小鳥の鳴き声が降ってくる以外には、なんの音も聞こえない。
 湿度の高い森の中でフェイスマスクをしていると息苦しい。振り返ると仲間たちも目元をみただけでわかるうんざりとした顔をしていた。
 周囲の安全を確認して小休止を挟む。
 水分補給をし、新鮮な空気と共に体を休めるためにに口元を覆う布を引き下ろすと、途端に濃厚な緑の匂いが肺に満ちた。
「あと一時間ほど探索し、何事もなければ帰投しよう」
 時間を確かめ、仲間たちに伝える。それは日暮れの時間が表示される仕様の、森を巡回するときの特別装備で、日がくれれば活動しなくなる魔獣の対策に特化したものだった。
 この森には、魔獣が出る。人を襲う魔獣だ。街に近づかないように巡回する、危険な仕事だ。ただの人に魔獣に対抗する手段はない。見つかればタダでは済まないことが多い。仲間は次々補充されるが、同じくらい急速に数を減らしていく。入隊三ヶ月経たないうちに小隊長を任されているのは、それが理由だ。
 今日も何事もなく帰還できる。そう思って安堵に胸を撫で下ろしたとき、足の下の地面が揺れた。
 小枝を踏んだときとは比べものにならない、樹木の折れる音が響き渡る。咄嗟に体を預けていた大木に張り付くようにして隠れ、音がした方をそっと覗く。
 目に入ったのは木の枝、あるいは根だろうか。一面を覆う苔の絨毯をめくり上げて地面に突き刺さっているそれは、先端で細かく枝分かれしたが根元は人の胴体ほどの太さがあった。ゆっくりと地面を離れ。再び接地する。
 大地が揺れた。
 それはどうやら足であるらしい。その上に民家ほどもある体らしきものが乗っかっている。
 魔獣。
 驚くべきはその魔獣が五十メートルと離れていない場所にいたことだった。さっきまでなんの気配もなかった。その動きを歩行と称していいのか不明だが、少し歩くだけで地面が揺れるそれが、なんの前触れもなく出現する。そんなことがあり得ていいのか。
 だが、考えている余裕はない。なんでもあり得る。相手は魔獣なのだから。
 あれが街に向かって歩行している以上、我々には止める義務があるのだ。
 もしかしたら突然現れたと思ったのは気のせいで、木に擬態していたものが動き出しただけかもしれない。必要以上に怯えるのは悪いことだ。そうヴィリ様も言っていたじゃないか。
 この魔獣の性質がなんなのかまだわからないが、魔獣が所持する能力とはひとつきりのはずだ。彼らは未知の脅威であり、到底人の理解の及ばぬものだが、無敵の化け物などでもない。
 手榴弾を用意する。
 まずは爆薬で何本か足を潰して、倒れたところで一斉に胴部を攻撃する。日暮れまで持たせれば落ち着いて対処できるはずだ。
「おい、待て」
 戦闘配置につこうとしたが、腕を仲間に引かれた。
「あれ、みろ」
 指差した魔獣の胴体部分で、オレンジ色の光が揺れている。
 目、それとも心臓部か。
 ちがう。カンテラの明かり。玄関でブラブラと明かりが揺れている。
 建物だ。
 魔獣の上に、ボロボロになって崩れそうな建物が乗っている。
 工房だ。
 魔法使いがいる。魔獣の上に家を構えることができるものが他にいようはずがない。魔獣は人工物の形状は取らないと、そう聞いている。人の痕跡が残っていたならそれは間違いなく、魔法使いの手のものでしかありえない。
 恐怖で体がこわばって動かなくなる。
「異端審問官を呼べ」
 何もできない。見つからないように、隠れて震えて幸運を待つしかできない。
 両手を組んで、神に祈った。神がいないのであれば、悪魔でもいい。
 せめて、普通に死なせてくれ。
◆◇◆
 現場に駆けつけたとき、手遅れということはすぐにわかった。
 魔獣の姿は影も形もなかったし、深い森の一部である立派な木の幹に、五人分の服が人間の皮もついたままで貼り付けてあった。
 痛ましい。
 壁に掛けられた動物の毛皮のように平たくなった巡回士たちに祈りを捧げた。
「しん、もんかんさま」
 ぶよぶよとした皮だけになった人間の一人が、異端審問官の制服をみて口を動かす。おぞましさに思わず眉をひそめた。
 魔獣は人の命は奪わない。ただその性質によって人という生き物に影響を及ぼし、全く別に何かに変えてしまう。骨も内臓もない皮だけに成り果てた彼らは、それでも生きているのだ。
「まお、つかいが、おります。まじゅ、に」
「魔法使い?」
 ならば彼らに歯がたつはずがない。一方的に蹂躙されるだけだっただろう。
 殺さねばならない。魔獣も、魔獣を保護する魔法使いも、人の世にあってはならないものだ。
 彼らは、我々の世界にとって致命的である。
 殺さねばならない。滅ぼさねばならない。
 森には魔獣の足跡が点々と残っている。
 地の果てまで追いかけて行って、殺してやろう。十字をきるかわりに、刃で宙を裂いた。

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