赤に一滴の群青


 息を止め、照準のわずかなブレを抑える。指にかかる引き金は重い。しかしそれを命の重みと思うと、あまりに軽いように思えた。
 パァンと谷間に発砲音が響き渡り、音に驚いて飛び去った鳥の羽ばたきが雪の塊を落とした。走り去る鹿の群れ。残された一頭が雪に白く血の染みを広げながらのたうつ。
 ああ、一発で仕留められなかった。
 すまない。苦しませて、すまない。謝りながら駆け寄り、前足の間に手の平ほどの刃渡りのナイフを差し入れる。
 怯えたようなぴゅいという微かな鳴き声と、深いため息のような音を最後に、暖かさを残して命の火が消えた。
 首を切り足に縄をかけて吊るし、血抜きをする。
 毛皮に包まれた自身の体温で急速に劣化する肉の味を保つため、その場で腹を裂き腹腔に雪を詰めて肉を冷やした。家畜ならばその血の一滴すらも糧になるが、山中においてその術はない。残しておけば雑食性の小鳥や狐あたりが舐めるだろう。
 腹に雪を詰めなおし橇に乗せて山を下る。周囲を山に囲まれたすり鉢状の土地の、一番そこに白く煙をあげる集落が見える。あそこが故郷だ。
 毎日、山に入って鹿を撃つ。最低でも、1日1頭。神殿へ献上される。余剰分は村の糧となるが、日を置いた肉は許されず、住民の比率に対して猟師の数は異常に多い。
 村の入り口で雪を踏み固めながら待つ長老の姿をみて、他の猟師の今日の戦果を悟った。
「ああ、シリル、助かった……。お前ならばと、思っていたのだ」
 他のものはゼロだったのか。では、今日は村の人間の口に肉は入らない。家で待つ妹の顔を思い浮かべ、シリルは顔を曇らせた。
 シリルの胸中を察したであろう長老は、肩に手を置く。
「後で鶏を、届けさせよう」
「……いえ、貴重な家畜、俺のために潰してはいけません。卵を、分けていただいているだけで十分です」
 明日からは必ず他の戦果を持って帰らなければ。雪に閉ざされた山間の土地は、豊かとは言えない。
「鹿を、神殿に持って行ってくれるか?」
「わかりました」
 親切にしてくれる長老を困らせたくはなく、従ってそれ以上、不服を顔に出すわけには行かず、シリルは橇を引いて足早にそこを立ち去った。
 毎日、鹿一頭。ウサギでも、リスでもない。
 なぜだ、と思う。一体誰が食べている。
 御影石の塊を積み上げて作られた神殿は、濡れると青みを帯びる。今は昼間の陽を浴びて溶けた雪で、薄青いはずだったが、沈みゆく斜陽を浴びて何もかもが赤く輝いて見えた。
 神殿では、いつもの男がシリルを出迎えた。
 ヨゼフ。シリルにとって最もえらい人間は長老だ。毎日卵を分けてくれる。誰に対しても分け隔てなく、優しい。
 だがこの世界で最も敬意を払われているのはこの男だ。最高神官。毎日村に鹿を要求する男。
「うん、シリルか。今日も君が獲ってきてくれると思っていたよ」
 栄養状態の良さそうな顔色を見るたびに腹が立つ。冬の食料の乏しい時期に、この男に毎日肉を献上しなければいけないことが、シリルには不服だった。その半分でもいい。村に分けてもらえれば、どれほど楽になることか。
「足りませんか」
「ん?」
「我々が献じた食料では、たりませんか」
 ヨゼフは困ったような顔をした。その真剣味にかける困り顔の裏で、村の人間がどれほど困窮しているか。養われるばかりのこの男は何も知らないのだ。
 何ができる。何をしてくれる。何を、俺達にくれるのだ。
「君の苦しさは知っているよ、シリル。村で一番の狩人。苦労をかけていることはわかっている」
 わかってる、などと訳知り顔でいう。男の顔を銃床で殴り飛ばしたくなった。知っているわけがない。畑をたがやしたことがない男が。薪を集めたことがない男が。雪を踏み分けて鹿を撃ちにいったことのない男が、知るわけがない。
 そうして毎日、家に妹を一人残して獣を殺して帰って末に、乾かした野菜と卵ばかりのスープを飲ませる俺の気持ちが、この男にわかるわけがないのだ。
「君たちがくれる食料は、神官のためになっている。とても助かっている」
「ならば、なぜさらに我々から取り立てるのです」
「取り立てたいとは思っていない。こんな場所で生きる人間の生活が楽ではないということ、私も流石に理解しているさ。だが、私は生の肉以外受け付けない。最後の一頭。それをなるべく長く生かすことが、この世の人々の望みらしい」
 一体何を言っているんだ。肉しか食わないとは、金持ちの傲慢か。
 向き直ったシリルは、息を飲んだ。
 ヨゼフが服を脱いでいた。日が落ちかけた冬の日に、一体何を。気でも違えたのか。
 全ての疑問を押し流したのは一糸まとわぬ男の体の、全身を覆う鱗だった。
 青い。
 サファイアよりも強く輝く、群青の鱗。魚のような薄く弱々しいものと違う一枚一枚が鋼のように硬い。
「君には、見せておかねばいけないと思っていたんだ。いつも迷惑をかけているのを、知っていたからね」
 少し揺れるよ、と言ってヨゼフが床に手足をついた。その体が爆発するように膨らんだ。弾け飛ぶ体の一部に見えたのは皮膜を張った青い翼。捻れた日本の角。乳白色の牙。ドラゴン。青い龍がいる。
 御影石が砂岩であるかのように、爪でえぐれた。外に駆け出す。
 強固な石造りの神殿の入り口があれほどまでに広い意味を、シリルはそsの日、初めて知った。
 外に飛び出したドラゴンを追いかけてシリルも外に飛び出した。目の前で起こった驚異の変異。恐るよりも前に、その美しさに感動していた。
 伝説の生き物が、動いている。驚異の造形物。
 皮膜を広げて飛び上がった体が、激しい風を巻き起こしながら空に近づく。
 夕日に燃える稜線。血のように赤く染まる空。光を受けてドラゴンの体が青く光る。
 それはまるで、赤に一滴の群青を滴らせたような酷く美しい姿だった。

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