夜明けの狼


 頭を低くして森を駈ける姿は、狩人に追われた獣に似ていた。走り続けるには水を含んだ服が重く、シャイラスは藪に身を隠した。
 川を泳いで下り、血の跡を辿れないようにした。しばらく茂みでじっとしていたが人が来る気配はない。追っ手はうまくまけたのだが、夜風で体温が奪われていくのが辛かった。
(まずったな)
 安全に体を休めることができる場所を見つけなければいけない。
 岩場で湧き水を見つけて傷を洗い、布を巻いた。ついでに目立つ金髪も、布で隠す。
 商人の護衛をしていた。とはいってもそこは安全な街道で、馬車に乗せてもらう代わりに夜通しの見張りをして獣を追い払う程度の役だった。だから商人も年若い二人しか連れずに発ったのだ。
 しかし街を離れ森の半ばに差し掛かったあたりで四、五人の男が襲いかかってきた。近接戦闘を得意とするシャイラスが真っ先に飛び出し、アクルは馬車に残って守りを固めた。
 だが威嚇のためでしかなかった火矢に、馬がパニックを起こして走り出してしまった。
 シャイラスは盗賊とともに、置き去りにされた。アクルと二人で協力すれば勝てない敵ではなかったが、五対一ではあまりにも部が悪い。アクルは馬車と共にいったし、野盗もシャイラスの方にきていたから仲間の身の安全は心配ない。心置き無く戦いに集中できた。
 交戦しながら森に逃げ込み、なんとか追っ手を振り切ることはできた。しかし森の中で孤立していて、格好の獲物であることは違いない。深追いする理由はないはずだが、やり返さねば溜飲が下がらないといったところだろう。
 森の中は薄暗く、見通しの悪い藪が多い。自分が隠れるならいいが、追っ手が掛けられている方となるとひと時も油断できない怖さがある。
 隠れ場所を探して周囲をぐるりと見回すと、崖の中ほどに洞窟が見えた。岩に張り付くようにして枝を伸ばした灌木に隠れて真下まで来ないと入口が見えない。斜面は急だったが、なんとか登って行けそうだった。
 這い上がり、洞窟に潜り込む。入り口と比べて中は広くゆったりとしていた。
 なだらかに踏み固められた洞窟の只中に焚き火の跡があり、シャイラスは武器を構えた。
 乾いた場所に積まれた薪は、その場所で火を焚いた人物が何日かここに止まるつもりであったことを告げていた。野盗の根城かと思ったがそれにしては小ざっぱりとして、風呂に入らない人間の饐えた臭いがない。
 火の跡はあるのだが、食事の跡だとか人が横になった形跡が見られない。なんというか、生活感がないのだ。
 今更外に出て新しい隠れ場所を探す気にもなれず、シャイラスは腹を括ってそこで一夜を過ごすことに決めた。洞窟内にあった薪を使わせてもらって、火を起こす。入り口以外にも割れ目があるようで、うまい具合に煙が流れていく。まるであつらえたように居心地のいい場所だった。
 最低限の装備を身につけたままでいたのは幸いだった。着の身着のままでは火をおこすことすらままならなかった。水に濡れた服を乾かし、火に当たるとようやく息をつくことができた。
 装備を解いてくつろいだ時に、洞窟の入り口で小石の転がる音がして、シャイラスは武器を構えた。防具を外した無防備な体を大剣の後ろに隠す。
 のっそりと姿を見せたのは、立ち上がれば成人の男ほどの体躯があるであろう獣だった。
「狼?!」
 黄金の瞳が用心深くシャイラスをみた。
 盗賊とはまた違った脅威だ。
 シャイラスは火のついた枝を掴んで構えた。並みの獣ならばそれだけで去っていくものなのに、その狼は火に怯える様子がない。脅かすように左右に振った炎には目もくれない。
 焚き火を挟んで、一人と一匹は向かい合った。
 黄金の瞳は穏やかで、怯えてもいないし、怒ってもいない。とても賢そうな顔つきをしている。
 シャイラスは、狼をじっと見つめるうちにその耳に飾りが付いているのに気がついた。片耳に金の輪ともう片耳に赤い宝石。首輪の代わりだろうか。
「お前、誰かに飼われてるのか」
 そっと火のついた枝を薪に戻す。狼は、なんの反応もしなかった。
「一晩ここを、借りたいんだ。いいか?」
 通じないと知りつつも、話しかける。狼は尻尾をぱたりと揺らすと、焚き火の近くまで来て横になった。
 瞳はまだシャイラスを見ていたが、気を許したような動きはシャイラスを安心させた。シャイラスも狼から目を話さないまま横になった。
 火に慣れた様子をみると、やはり誰かに飼われているのだろう。
(少なくともあの盗賊たちじゃないだろうな)
 気がつくとシャイラスは微睡んでいた。気をはっていたが、体が疲れ切っていたのだろう。
 外から差し込んだあたりが眩しくて目を覚ました。いつのまにか夜を明かしたらしい。
 焚き火はもえさしだけになり、狼の姿はどこにもない。火の揺らめきが見せた幻影か夢だったのかもしれない。
 とにかく空腹で、喉が渇いていた。
 洞窟から這い出したシャイラスは、森の中に細く煙が立ち上っているのを見た。多分あそこで盗賊たちが野営をしたんだろう。ここからそう遠くはないから早く離れた方がいい。洞窟内に戻り、武器と荷物を背負い直す。周囲を警戒しながら下まで降りて、とにかく昨晩傷を洗った湧き水で、喉を潤した。
 盗賊から遠ざかる方向に行けば、街道からどんどんと離れてしまう。それは盗賊に襲われるのとは別の命の危険が伴った。
 焚き火を迂回して、街道に戻る道をとりたい。見つかる危険はあるが、昨日の交戦で相手はさほどの手練れではないことはわかっていた。手慣れた相手だったら、一人残されたシャイラスが逃げ切れるはずがないのだ。街が近い場所ではあるし、街道にでれば森で遭難するより生き残るチャンスはある。
 悩んでいる時間はそれほど長くはなかった。
 森の中から聞こえた鋭い唸り声に、足を引き止められたのだ。男たちの声も聞こえる。
 反射で身を低くした。
 藪に紛れて声の方に近づけば、そこにいたのは昨晩の狼だった。三人がかりで頭を抑え付けられ今にも縄をかけられようとしている。
 陽の下でキラリと光る耳飾りが、目を引いたのだろう。毛皮も高く売れるという相談をしているのも聞こえた。立派な狼だから売ればさぞかし良い値になるだろう。
 単なる獣といえば、それまでだ。シャイラスも博愛主義者では無い。獣がいれば狩って食べることも毛皮を売って旅費の足しにすることもあるし、魔物がいれば討伐する。しかし、一晩を共に過ごした狼に情が移っていたのは確かだった。
 シャイラスは覚悟を決め、物陰から飛び出した。一番近くにいた男を突き飛ばし背負っていた弓を奪い、うちすえる。鞭のようによくしなる弓を顔面に食らった男は悲鳴をあげてうずくまった。
 狼が一際大きく唸った。闖入者に驚いた盗賊の手が緩んだ隙に身をよじって抜け出すと、牙を向いた。
 引き裂かれた男の腕から、パッと鮮血が散った。
 これでいい。狼が逃げる隙ができたなら、それ以上戦うつもりはなかった。踵を返して森に逃げ込む。
「てめぇ、覚悟しろよ」
 背後で男が唾を飛ばし、斧を抜いた。
(見つからないように逃げるつもりだったんだけどな)
 昨日ほどの体力は残っていない。うまく逃げ切れるか、我ながら馬鹿な賭けに出たものだ。
 逃げるシャイラスの後ろで、悲鳴が聞こえた。横目で後ろを見ると、狼が走り出てシャイラスの横に並んだ。その口元が血で濡れている。
「助けてくれたのか」
 狼は答えず、先導するように先に出た。もとより、どちらに向かえば良いのかもわかっていないシャイラスは、ふかふかとした尾を追いかけて無我夢中で走った。
 どれくらい走っただろう。昨日から何も食べていない。空腹で胃が溶けてしまいそうだ。
 視界がぐるぐると回り出し、シャイラスはついに足を止めた。心臓が痛いくらいに跳ねている。背中で大きく息をして呼吸を整える。
 いつのまにか狼の姿は見えなくなっていた。足音すらしない。案内をしてくれるように感じたのは気のせいだったんだろうか。
 森の只中で置き去りにされて、シャイラスは途方にくれた。盗賊の気配がしないのは良いが、ここがどこなのか検討もつかない。
 と、木々の向こうから情けない悲鳴が聞こえた。耳に馴染んだアクルの声だ。
 そちらに走ると突然、視界がひらけた。街道だ。アクルが、その向こうから半泣きで走ってくる。
「アクル!」
 手を振ると、向こうもこちらに気づいた。後ろを気にしている。盗賊に見つかったのかと思い武器を構えたが、様子がおかしい。
 全力疾走のまま飛び込んで来たアクルをなんとか受け止める。思わず呻いたが幸いアクルには聞こえていなかった。
「探しに来てくれたのか」
「シャ、シャイラス〜、狼が」
「狼?」
 覚えのある言葉が飛び出し、シャイラスの頭に大きな疑問符が浮かぶ。
「黙って座ってるから大人しい子なのかなと思ったんだけど、進もうとすると道を塞いで唸るの。それで逃げてるうちにここまで来ちゃったんだけど」
 しかし、アクルの後ろには狼の姿など見えなかった。
「もしかしてその狼、耳飾りつけてたか」
「わかんないけど、何か光ってたかも。知ってるの?」
「ああ、街に着いたら話そう。もう腹減って死にそうだよ」
 歩き出した二人の後ろで、耳飾りが赤く光を反射した。

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