風の祈りと旅人の歌

3,港の歌

 夜鳴きの鶏亭に持ち込んだ荷物は多くない。ようやく帰ってきた自宅で、サハルトは大きく息を吐いた。
 足首の腫れは治まってきたが、まだ痛みが残っている。
 夕食を買いに行くのは諦め、眠る前に楽器の手入れを終わらせることにした。小さな丸テーブルをベッドの横まで引っ張り出し埃を払う。部屋に運び込んだ時のままだった荷をほどき、道具を一つ一つ並べてゆく。奥の方にしまいこんであったそれらの道具は、ダルチャのためのものではない。
 壁に立てかけてあった楽器を手に取った。
 膝に乗せ、帆布を解く。壊れたというのは嘘だった。このままではろくな音はならないのは確かだが、流れるような曲線には歪み一つない。驚くほど薄い板で作られており、見た目以上に軽い。
 乾いた布に蜜蝋と精油を混ぜてつくられたワックスをつけ、乾いた柔らかい布で優しく磨き上げてゆく。部屋の中にオレンジの爽やかな匂いが広がった。指板にはワックスの代わりにオイルを染み込ませてから、拭き取る。オイルが他の部分に付着しないように神経を尖らせながらの作業は肩が凝った。
 慣れない作業に手間取って、一通りの作業を終わらせるころには、夜の帳がおち光源は手元の灯だけになっていた。弦も全て張り替えなければならないが、今日のところはここまでだ。細かい作業をするには暗すぎるし、集中力も限界を迎えている。
 磨き終わった楽器を日の当たらない方の壁に掛けた。その表面は艶やかで、ランプの炎が揺らぐたびてらてらと光を反射した。サハルトは仕上がりに満足すると明かりを消して、ベッドに潜り込んだ。
◆◇◆
 久しぶりの家でぐっすりと眠り、普段よりも遅い時間に目が覚めた。この後の約束を思うと、ゆっくりする時間はない。
 服を取り替え、テーブルの上の散らかりようは見なかったふりをして水場に降りた。ちょうど朝と昼の間の時間で人も少なく、待たずに顔を洗うことができた。
「あんたサハルトじゃないか。なんだ帰ってきてたのかい!」
 急に背を叩かれて、サハルトは顔から水に突っ込んでむせた。それは背を叩くと形容するにはあまりに強い衝撃だった。むせながら振り向くと目を輝かせた中年の女性がそこにいた。
 友人というには離れた年頃で、顔を見てもピンとこなかったのだが、ヤギがごとき力強いタックルには確かに覚えがあった。
 大家の夫人と親しい女性が確かこんな顔を、いや、こんな力加減をしていたはずだ。たびたび水場や下宿屋の一階で長々と話こんでおり、サハルトも大家の夫人に挨拶をするついでに、何度か言葉を交わしたことがあった。あの時から、彼女は力加減を知らない。
 街で暮らす彼女はサハルトよりもよほど交友関係が広いだろうに、よく覚えているものだ。他方サハルトといえばとっくに彼女の名前を思い出すことを諦め、どうにか名前を呼ばずに会話をやり過ごすことを考えているのだ。
「ちょいと痩せたんじゃないか。あんたどうせ男の一人暮らしでろくなもの食べてないんだろ。ちょっと待ってな」
 止める間も無く駆け出しそうな女性を慌てて止めた。
 ちょうど昨晩の食事をぬいて空腹だったが、彼女を待っている時間は惜しい。ろくなものでなくてもいいから、屋台で手軽に済ませたかった。
 立てかけてあった松葉杖に手を伸ばすと彼女の視線も松葉杖に移り、次いでサハルトの足をみて顔をしかめた。
「なんだい怪我してんのかい」
「峠でやっちまいまして」
「ようやくみなとうたいの代わりが見つかったと思ったのに、あんたまで怪我してるなんて、こりゃ今年はよくないことでもあるね」
 街の人間らしい迷信深さだ。同じくらい根深い楽観的な気質で、深刻に捉えてもいないようだった。
 みなとうたい。
 懐かしい響きだ。
 彼女の旦那は漁師だったのかと遅すぎる理解をする。大家との交友関係は大した問題でなく、サハルトが覚えられていたのは一度みなとうたいの役目を負ったことがあるからだ。
 何を期待されているのか理解はしたものの、今のサハルトには語るべき言葉も歌もない。適当な相槌を打って、彼女の言葉を聞き流した。
「早く治しておくれよ。漁に行かないんじゃうちの旦那なんてただの穀潰しだからね。昨日だって……」
 概して女性というのは旦那の愚痴が始まると、長い。洗濯しながら、買い物の途中であるいは道端で、日が暮れるまで話し込むのだ。
 不穏な気配を察したサハルトは、そそくさと立ち去った。
 すでに街は目覚め、メインストリートは活気に包まれている。人混みを避けるために裏道を通り、一度港に出てから夜鳴きの鶏亭に向かった。
 濡れた木板が暗く沈んだ色をして見える桟橋に、人の姿はない。一昨日以来、雨こそ降っていないものの雲が重く垂れこめ、風が冷たかった。
 人間が慎み深く顔色を窺っているうちは大人しいが、向こう見ずな航海に乗り出せばすぐにでも嵐を起こす。そんな天気だった。気が滅入るような空模様が、いかにも故郷の冬らしい。
 夜鳴きの鶏亭に到着し、ドアノブに手をかけたサハルトは扉越しに響いた豪快な笑い声に手を止めた。まだ酒場の開く時間ではないのに、夜鳴きの鶏が昼間から鳴き出しそうだ。大騒ぎに飛び込むには勇気が必要だが、パンを待たせている。思い切って扉を開けると、中にいた男たちは一斉にこちらを見た。
 夜鳴きの鶏亭は船乗りと楽士のための店だが、店内に屯しているのは地元の漁師たちだ。酒場の主人が昔からの顔なじみだと、度々こういった事態になる。暇な時間をどれほど酒に変えて過ごしているのか知らないが、水場で会ったの女性の愚痴もさもありなんと思えた。
 輪の中心にいるのは昨日と同じ場所に腰掛けたパンで、みな好き勝手に椅子を動かして彼を囲んでいた。
「おう、サハルトじゃねぇか!」
 真っ先に声をあげたのは、カウンターの向こうにいた店主だ。その後ろで、彼の弟がいつも通り黙々と仕事をこなしている。
 店主の一言でほろ酔いの漁師たちは戸口に立つ人物が誰か理解し、異国の旅人をみる眼差しは驚きと喜びの声に変わった。
 故郷を離れていた時間の隔たりに居心地の悪さを覚えたのも一瞬のこと、サハルトはすぐに彼らの中心、パンの隣の席に迎え入れられた。
「昨日来たと思ってたのに、朝見たらもう部屋が空っぽになってやがる。薄情なやつだぜ」
 不服そうに言いながら、当然のようにビールを注いだ。飲み始めれば切り上げ時がわからなくなるのは目に見えていたので、サハルトは受け取ったジョッキをそのまま後ろの男にパスした。
 パンもどうやら飲まされずに済んでいるらしく、普段通りの様子で笑っている。
「今日は随分賑やかだな」
「そりゃそうさ。船が出なけりゃ俺ら漁具の手入れしかすることがねぇよ」
「まあ、そんな話は置いといて、飲まないなら何か食べて行けよ」
「肉か、魚か。そっちの兄ちゃんも、どうせなら何か食べてけよ。なーに俺らのおごりさ、気にするこたねぇ」
「山から来たのか海から来たのか。山か!なら魚だな」
「山越えだと乾いたものばっか食べて味気なかっただろう。見てろ脂がたっぷり乗ったやつ出してやるよ。作るのはこいつだがな」
「口の中でとろけるぜ」
「肉がいいならこっちがオススメだ。見ろよこのベーコン。自家製だぜ。そう親父の自慢の。ここのベーコンを食べないで帰るなんてことあっちゃならねぇよ」
「サハルトは魚だな、こいつは昔から魚好きでな、鱗が生えて泳ぎだすんじゃないかって心配したもんだ」
 各々が好き勝手に口を開くので、どちらをみて話を聞いたらいいかもわからない。サハルトの昔の話が出たのをきっかけに、漁師たちはこぞって思い出話しを始めた。
 懐かしいと思うことから全く見に覚えのないことまで、子供の頃からの顔なじみなだけあって話題が尽きることはなく、本人が口を挟む暇もない。
 乳飲み子だったころの話まで持ち出されると、真偽のほどはサハルト自身にも確かめようがなく、話半分で聞いてくれとパンに声をかける以外にできることはなかった。口を動かしながらも店主はさすがの手際の良さで、あっという間に二皿をカウンターに並べた。
 横からのぞきこんだ顔が唇を尖らせる。
「おいおい、魚はどうしたんだ」
「とれたてのやつを頼むぜ、お大尽」
「無茶いうな! 船も出せねぇのに鮮魚が出るかよ。お前いまから泳いでとってこいってんだ!」
「やっぱり、わたりうたいを乗せないと漁に出られないんですか?」
 パンが酔っ払いの勢いに流されないようにしながら、慎重に口を挟む。
 漁師たちはそれを聞くと顔を見合わせて、笑い出した。
「いやぁ、俺らのは冬とは関係ないのさ。歌は必要だがわたりうたいは乗せねぇよ」
「俺らの舟に一人ずつ乗っかってたら、うるさくってしょうがねぇよ」
「そうとも、魚が逃げちまう。なあ、サハルト?」
 水を向けられてもサハルトは漁民ではない。意図するところはわかっていたが、何も気づかないふりをしてかわした。
「俺たちに必要なのは”みなとうたい”。一人でいいのさ」
「みなとうたい?」
 パンは耳慣れない単語に、首をかしげる。
 昼間からの酒に酔って上機嫌な男は喜んで説明役を買って出た。
 わたりうたいとみなとうたいは、捧げる歌こそ同じだが役割が異なる。
 冬鳥とともにガトバルに戻り船とともに海を渡り、風に歌って航行の安全を祈るのがわたりうたいだ。みなとうたいは湾内で魚をとって生計を立てる漁師のために、また冬の嵐から港を守るために歌う。湾全体のために歌うので特定の船に乗ることはなく、港の東側にある洞窟の中で歌を捧げる。冬の風が吹いている間は毎日、漁師が海に出る夜明け前の時間に歌わなければならない。
 冬が過ぎて天候が落ち着いても、風は気まぐれで嵐を呼ぶこともある。だからみなとうたいだけはわたりうたいが去っても港に残り、一年を通して港のために歌う。渡らずに港に残るからみなとうたいだ。
 漁民が船を出せないのは、みなとうたいが怪我をしてしまったせいだ。治るにはひと月ほどかかるらしく、迷信深い漁師たちは海が荒れがちなのも手伝ってここ数日漁に出ていない。
 わたりうたいがガトバルに戻ってくれば誰かに頼むこともできるだろうが、無論誰でも良いということはない。根無し草を選んだわたりうたいの中には街での暮らしを嫌うものもいるし、別の場所での生活を持つものもいる。
「サハルトがみなとうたいに戻ってくれりゃ、それで解決するんだけどよ」
 黙っていてくれと心の中で念じたが、話がそこに着地するのは当然の流れだった。
「サハルトが?」
 楽器が壊れたと言ったのも嘘なら、わたりうたいでないと言ったのも、嘘だ。わたりうたいとみなとうたいは違うものだなどという言い訳にも無理がある。自分の不誠実が苦々しく、サハルトはパンの顔を見れなかった。
「休業中だ」
 仕方がなく、それだけいった。
 さっきまであれほど暖かく包み込んでくれていたはずの縁が、急に息苦しくなった。
「風を鎮められなくなっちまってなぁ」
「修行するっていってふらっと街をでていったきりだったんだよな。帰ってこないんじゃないかと思って、気を揉んだぜ」
「戻ってきたってことは治ったのか?」
「まだだ」
 責められているのではないとわかっていても、言葉に棘が含まれているのではないかと勘ぐってしまう。不快が態度に出ないようにすると、言葉は無愛想なほど簡潔になった。
「いつまでもくすぶっていたって仕方がねぇ、試しにいって歌ってくりゃいいんだ。風が鎮まりゃめっけもんだぜ」
「俺も怪我人だ」
「楽器は弾けるだろ」
「片足であの道は辛い」
「ならにいちゃん、手伝ってやってくれよ」
「パンはわたりうたいじゃない」
「それでも楽士だろう。二人で歌えば気まぐれな風も、ちっとは話を聞いてくれるかもしれん。なにしろ変わった楽器を使っているしな」
 それで解決するなんて、彼らも思ってはいないだろう。
 来るべき冬を前に、みなとうたいの不在は切実な問題であるに違いない。
 旅人の滞在期間が延びた分だけ街の経済は潤うが、漁に出れない漁民たちには売るものがない。活気付くメインストリートと対照的に静かな港をみると、漁民でなくても不安になる。
 考えられる手の全てを試さずにいるなんて、どだい無理な話だというのも理解できた。彼らの心情が分かるのに、それをはねのけるような冷徹さは持てない。
 軽くなった財布の分だけ重くなった期待が、既に居所を失ったはずの場所にサハルトを収めようと引っ張っている。その張力に逆らえず、今日の予定はパンに洞窟を案内することに変更になった。
 家を出るときに財布しか持っていなかったサハルトは一度家に戻った。楽器を取りに戻るというのは、その場から逃げ出すのに都合のいい言い訳だった。
「うわぁ、昨日片付けたんだけどなぁ」
 部屋の中の有様をみて、パンが呆れた声を上げた。
 必要なものだけ取り出してあとはそのままの荷物たちが部屋に広げられている。机の上は手入れ道具が昨晩のまま置いてあった。外国製の高価なレモンオイルの瓶だけ、落として割らないように布に巻いて片付けた。
「時間がなかっただけだ」
 壁にかけてあるピカピカの楽器に気づいていないはずはないが、彼は何も言って来なかった。
 一つしかない椅子をパンに譲り、サハルトは出かける用意を始めた。必要なものは、外套と洞窟内を歩くためのランプ。あとはダルチャくらいだろうか。準備をするまでもなく、毎日弾き鳴らしているダルチャは常に弾ける状態にある。ランプも昨晩使ったからすぐ手に届く場所にある。
 それでも気の進まないことを少しでも先延ばしにしたくて、丁寧に楽器を拭きランプの油を補充した。
「サハルトは、みなとうたいだったんだね」
 黙々と時間稼ぎをするサハルトを見ながら、間を持たせるようにパンは言った。
「悪いな。つきあわせることになっちまって」
 パンが断ってくれないかという淡い期待を込めたが、彼の返事は「気にしないで」だった。
「みんなに頼りにされてるんだ」
「そんないいもんじゃない」
 知らず突き放すような口調になってしまった。
 パンは口をつぐみ、サハルトも己の声の硬さに驚いて次の言葉が出てこなかった。二人の間に重い沈黙が横たわる。
 この二日間でより互いを知ったはずなのに、出会ったばかりの時より距離が隔たってしまったようだ。
「無理にいくことないよ。俺、適当に話合わせるし」
 気遣うような言葉でサハルトは我に返った。
「すまん、その……つい苛々しちまって。パンに対して、怒っているわけじゃなくてな」
「ん、わかってるよ」
 パンは本当に何事も気負っておらず、サハルトも肩の力が抜けた。
 距離が隔たったのは、サハルトがそうしたからだ。パンはなにもかわっていない。故郷の縁を重苦しく感じているのも、不本意な場所に引きずられていると感じているのもサハルト一人。パンはただ、自由だ。
 それに気づいた時にサハルトの心は再び旅空の下に飛び、焚き火を挟んで語り合った時のように己のことを話す気になった。ダルチャを脇に置き、壁にかけてあった楽器をとった。昨晩手入れし、まだ弦を張り替えていない異国の楽器だ。
「風を鎮められなくなっちまった原因、本当はわかってるんだ」
「その楽器に関係してる」
 それはほぼ核心に近かった。パンが人一倍聡いのかもしれないが、サハルトもわかりやすい人間なのだろう。
 旅人が集まるガトバルの港には、不意に異国情緒が紛れ込むことがある。音楽もその一つで、特に楽士の宿泊が優先される夜鳴きの鶏亭ではたくさんの出会いがあった。
 街にいながらにして、海を越えた先や山の向こうのことを知れる贅沢な境遇を大いに楽しんだ。
 その楽器も海の向こうから来た旅人が、長い船旅の手慰みに持ち込んだものだった。
 ダルチャよりも弦の数が多く明瞭な音を出すその楽器は、表現の幅も広い。
 酒場で出会い、サハルトは一度耳にした時から、その音色に夢中になった。
 すでにみなとうたいを任されてガトバルを離れられないので、無理をいって山越えの予定を遅らせてもらいさえした。弾き方も手入れの方法もその時に教わったもので、あまりにしつこく聞いてくるので旅人はサハルトの情熱にみかねて楽器を譲ってくれたのだ。
 旅人が運んでくるのは見知らぬ土地の物語と、新しい歌。その全てがサハルトの胸を躍らせた。乾いた土に水が染み込むように、その全てを奏で歌った。
 だが、異国の楽器を手にしいつものように酒場で披露したサハルトは、周囲の目は冷ややかなものだった。
 その時に、気がついた。
 サハルトはみなとうたいだ。港を守るために歌い、祈るためにいる。
 異国の楽器など必要ない。新しい歌など、求めていない。
「俺には、一つの歌しかない。それ以外、必要ない。それが嫌になったんだ」
 街の人間が悪いわけではない。自分たちの生活をつつがなく送るために当然の主張だったし、役目を引き受けたのはサハルト自身だ。
 それでも息苦しいと感じてしまった。海の向こうに行きたくなった。その時から、サハルトの歌は風の精に届かなくなった。
 祈りが届かなくなったのではない。祈ることをやめたのだ。
 その年の冬、帰って来たわたりうたいの一人にみなとうたいの任を預け、サハルトは旅に出た。どこでもいいからみなとうたいもわたりうたいも必要としない新しい場所にいって、新しい歌を歌いたかった。
 サハルトにとって、旅をした歳月は腕前を磨いて故郷に戻るためのものではない。むしろ故郷を諦めるためにあったといっていい。
 どこへ行っても生きていける。望めばどこにでも行けるのだということを確かめたかったのだ。だが、新しい場所へと言いながら、サハルトはすぐ傍にある新しい世界に背を向けて山を越える道を選んだ。
 ガトバルと地続きの場所に立って、いつも自分の立ち位置を確かめていた。
「ふるさとは、根っこみたいなもんなんだ。どこかに腰を下ろして花を咲かせようとするたびに、自分がどこの水で育ったかを思い出す。結局帰ってきちまったな」
「それでも、まだサハルトはどこかへ行きたいと思ってる」
 パンの言葉には旅を住処としてきた人間特有の確信があった。
「パンが羨ましい。俺にはしがらみを振り払う力がない。自由になりたいんだ」
「誰だっていつだって自由だよ。自由じゃないんだとしたら、それは誰かのせいじゃなくてサハルトの意思だ」
「だけど、俺はみなとうたいになることを求められてる。ただの楽士として、故郷に残るかどうか決めるのとはわけが違うんだ。」
「心のこもってない歌は届かない。それはわたりうたいでなくても同じだよ。心を込めるのなら、自分で納得のいく答えを見つけるしかない。だから、決めるのはサハルトだよ」
「そうだな、そうだ」
 自分に都合のいい部分だけすくい取ることはできない。どちらかを選んで、何かを捨てなくちゃいけない。後悔しないためには自分で納得して、答えを出すしかない。
 借家にしがらみを隠してゆく旅は、今日で終わりだ。
「予定変更だ。もうすこし待ってもらっていいか」
 サハルトはダルチャを持っていくのをやめ、異国の楽器の弦を交換を始めた。音程を確認するために指で弾いただけで、耳当たりの良い張りのある音がなる。
 ペグを回し弦の調整をしているうちに、己の心の中もはっきりとしてきた。
 故郷を思いながら、旅に惹かれている。ダルチャを愛しているが、他の楽器を手に取りたい衝動も抑えられない。街の人間の思う通りのみなとうたいにはなれなかった。しかしそれ以外のものにもなれない。
 期待に応えようとするのはやめた。
 誰にも必要とされないことを恐れて隠したこの楽器で、心のままに奏でたい。風の精に届くかどうかは関係なく、ただそうしてみたかった。
 決めるのは、己だ。その決断の喜びも後悔も、選択をした本人が受け入れねばならない。
 ずっと先延ばしにしてきたその決断をする覚悟が、できた。そして会ってからの時間が短くとも、一番サハルトを解してくれる友にそれを見届けて欲しかった。
 弦の交換が終わると、帆布に包みパンに渡した。ダルチャと違って専用のカバンはないので、松葉杖では持ち歩けない。海の近くを通るので、パンの楽器も丁寧に包むと二人は出発した。
 夜鳴きの鶏亭に向かったときと同じ道を通って、港にでる。
「あそこがみなとうたいの洞窟だ」
 サハルトが指をさした先には洞窟が黒い穴を開けているのが見えた。港の東端から徐々に立ち上がり高さを増していく岩壁に、洞窟まで続く道が付いている。
「あそこで歌うんだね」
「いや、上に向かう」
 斧で斜めに切り込んだような岩を穿つ道の途中から、獣道のような細い脇道が伸びている。岬へと至る一番の近道だ。
 松葉杖で行くにはいささか険しすぎる道で、痛みからくる冷や汗か体が温まったからか判別つかない汗が背中を濡らした。
 外洋に面した岬は特に激しい潮風に晒されるため、低木と生命力の強い草が地を這うばかりだ。だが、ゆるやかな弧を描いて広がる湾とガトバルの街、その背後にそびえる白い山脈を一望できる。反対に目を向ければ、空の際まで広がる海が世界の広さを語って横たわっていた。
 パンが感嘆の声を上げる。サハルトも同じ気持ちだった。
 ここだ。
 ようやくここに戻ってきた。
 腰を下ろせる場所を探し、潮風から楽器をかばうように海側に背を向けて座った。
 みなとうたいになるよりもずっと前、海鳥と風以外には聞くものもない岬で練習をしたのも、今は遠い記憶だ。
 あの頃の自分は、なぜ誰も聞かない歌を飽きもせずに歌っていたのだろう。
 指先に神経を集中させ、余計なものを意識から締め出す。
 絶え間なく風が唸りを上げる岬の上で、その瞬間だけサハルトは静謐を感じた。
 自分と楽器と、その音色を待ち望む見えない何か。今、世界にはそれしかいない。
 旅空の下、何度も口ずさんだのは古ぼけて意味を忘れた詩、誰のために奏でているのかもわからない音色。
 海の向こうを夢見ながら、故郷のために捧げた祈りは誰にも届かなかった。
 届くわけがない。誰も聞くわけがない。俺は真実、何も奏でてはいなかったのだ。
 息を吸う。
 弦を爪弾く。石畳を叩く最初の雨の一滴のように、奏でた音色は鼓膜を打って体に沁みた。
 始まりはたどたどしく、次第に感覚を取り戻して弾む指先にサハルトの歌が重なった。
 叩きつけるような、激しい声。鮮やかな音。
 柔らかい音を朗々とした声で包むわたりうたいの歌とは似ても似つかない。祈りというよりは怒鳴りだ。
 それでもサハルトはあの旋律をたどり、骨まで染み付いた言葉を唇にのせていた。
 鼓膜を震わせる振動。弾きたかった楽器。腹の底から湧いてくる、本当の声。
 誰かのためではない。俺は俺のために歌えばよかったのだ。
 全てを吐き出し終わった時、サハルトは泣いていた。
「すごい、魔法みたいだ」
 パンの言葉で我に返り、汗を拭うふりをして目頭を押さえた。
 厚い雲を割って差し込んだ光が、湾の中心に光の筋を落とす。雲の切れ間は徐々に広がり、街について以来初めての晴れ間を港に届けた。
 空の青さが目にしみた。
 殴りつけるような激しい風はいつの間にか凪いでいる。潮風が柔らかく頬を撫でた。
 サハルトの祈りは、聞き入れられた。
「本当は海を越えるが怖かったのさ。風に見捨てられた俺が乗ったら、船に悪いことが起こっちまうんじゃないかって、不安でな」
「じゃあ、今ならもっと遠くまで行けるね。サハルトも行こうよ」
 人が行き交う道となり、すでに拓かれた海路ですら先にある大陸は見えない。サハルトが旅した国でさえ、これほどに広い。パンは今までどれほどの海と国とは一体どれほどの渡ってきたのだろう。
 その先に待ち受ける景色に思いを馳せながら、サハルトは首を横に振った。
「誰に頼まれたわけでも、望まれたわけでもない。俺がこの風に唄いたいんだ。他でもない、俺自身のために祈りたい」
 旅立つだけが自由ではない。どんなに曖昧に揺らいでも、サハルトの場所はここだ。たとえ誰も受け入れてくれなくても、風がサハルトの声を聞いている。それがどんな素晴らしい景色を見たときよりも激しく、心を揺さぶっていた。
「そっか。みなとうたいに、戻るのかな」
「それは、街の連中次第だろうな」
 自分の意思とは関係なく決まることなのに、穏やかな気持ちで受け入れられる。
「ね、サハルト。ここを発つ前にさ、祈りの歌教えてよ。他にもまだまだ、聞ききたいことがたくさんあるんだ」
「俺もだ」
 パンがガトバルを去るまでの時間、二人はたくさんの歌を交わした。きっとその中には、彼がこれからゆく国もあっただろう。
 友人の船出の日、帆を膨らませる風の向こうに叫ぶような祈りの歌が聞こえていた。

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