風の祈りと旅人の歌

1,峠の楽士

 峠を上りきると風の匂いが変わった。ロバを牽きながら坦々と山道を登っていたサハルトは顔を上げ立ち止まった。空の際に暗い色をした海が横たわっている。
 山越えをする旅人は大抵この場所で、開けた視界の中に目的地を見つけ安堵した。旅人たちが目指すのは、ガトバルという港街だ。これから海を渡るものや、海を渡ってきたものが通り過ぎていく場所であり、サハルトにとっては生まれ故郷でもあった。
 順調にいっても、街に着くのにまだ一日はかかる。途中に人の集落はないため野宿だ。日暮れ前に峠を下るためサハルトは旅を再開した。
 ガトバルは気候の変化が大きい街だ。夏場、山を越えて吹いてくる北風は、季節が移り変わるにつれて海からの激しい南風に変化する。
 穏やかで乾いた天気が続く夏と比べて、冬は雨が多く海も荒れた。
 風の中に微かに海の匂いが混ざるのは、冬の訪れが近い証だ。この土地に親しんだものにしかわからない変化も、サハルトの鼻は敏感に感じ取った。
 旅をして暮らすようになっても、故郷の匂いはそう簡単には忘れないらしい。気が付くと、懐かしい旋律を口ずさんでいた。ガトバルに遥か昔から伝わる、風を鎮め航海の無事を祈る唄だ。足元の悪い道でなければ、迷いなく楽器を手に取っていただろう。指先が弦を爪弾く形に踊った。
 歌声は谷に反響して広がり、心地よい残響を返してくる。今は使われていない古い言葉で綴られた詩は呪文のようだ。古い歌が呪文なら、その歌い手は魔法使いだろうか。たった一つのまじないしか知らない魔法使いを、人々は頼りにするだろうか。
 顔に冬の激しい風が吹き付けて、サハルトは歌をやめた。
 どうやら今年は冬の訪れが予想以上に早いようだ。こんな風が吹き始める前に、ガトバルの街に入っている予定だった。道中の街や関所で足止めをされることもなく順調な旅だったが、一か月ほど遅れて街に入ったような風の冷たさだ。
 外套の襟を引き寄せた時、何かが聞こえた。楽の音のようにも思えたが、谷間を抜ける風の音にまぎれてしまいはっきりとはわからない。
 確信を求めて荷を負うロバの方を振り返った途端に、足が滑った。体勢を整えようとしたが間に合わずそのまま後ろに倒れる。世界が反転した。体を岩に打ち付け、あまりの痛みに息が詰まった。
 慎重に上体を起こす。血の出るような怪我はなかったが、足首の痛みが強い。ロバに掴まって立ち上がり数歩、歩いてみたものの、痛みに耐えきれなくなって腰を下ろした。
 周囲に助けを求めようにも応えてくれそうな人影はない。山のどこかに放牧を生業とする人が暮らしているのは確かだが、山羊の群れは白い靄のように見えるほど遠くだ。声を張り上げたところで届くとは思えなかった。
 人里離れた場所で動けなくなったにも関わらず、サハルトは落ち着いていた。ため息をつくと、ロバの背から荷物を下ろす。いざとなったら無理をしてでもガトバルの街に向かうつもりでいたが、今はその時ではない。山越えをする旅人が多くなる時期だ。下手に動いて怪我を悪化させるよりは、誰か通りがかるのを待って助けを求める方がいい。幸いロバには、野宿の備えが十分に積み込んであった。夜の冷え込みは、布をかぶってやり過ごすしかないだろう。こんななりでは薪を探しに行くことはできない
 日暮れまでの時間は、楽器を奏でるくらいしかやることがなかった。
 観客がいないのは張り合いがないが、巧拙を気にせずに歌う楽しみがある。耳に馴染んだ故郷の歌から始め、旅の中で出会った歌を思いつくままに奏でていく。人がほとんど訪れない秘境の村や王族の治める豊かな街、見たことのない意匠の建物。旋律と共に様々な風景が頭に浮かび、気持ちを高揚させていった。
 どれくらいの間、そうしていただろうか。夢中になっていたサハルトはすぐ近くに人がいることにも気づかなかった。彼が自分と同じ楽師でなければ、助けを求めることも忘れて演奏に熱中したままだっただろう。
 旋律に軽やかで優しい音色が重なってきたとき、すぐにその音色に夢中になった。絃楽器だというのはわかったが、このあたりで使われているものとは形や材質が異なっているようだ。音の違いもそれに起因するのだろう。
 その楽器をもつ人物の顔を見たのは、歌い終えてからだった。人懐っこい笑顔を浮かべる青年と目があった。森の色をした髪をかき分けて、捻じれた立派な角が二本生えている。先の割れた奇妙な靴に見えたのは蹄で、どうやら血の通った本物であるらしい。
「あれ、やめちゃったのか。もしかして邪魔だった?」
 じっと見つめてくるサハルトに、青年は戸惑った様子だった。
「いや、誰か通りかかるのを待っていたんだ。こっちに夢中になってて、あんたが来たのにちっとも気が付かなかったけどな」
 言いながら楽器を示すと、青年に笑顔が戻った。
「そっか、気難しい顔してたから一人旅が好きな人なんだと思った」
「確かに、普段はそうなるな」
 サハルトは苦笑した。一人旅は好きだ。特に同じ故郷の者と旅路を共にしたことは、ほとんどない。あまり気安い人間に見えない自覚はある。ただ、今回は怪我の痛みもあるから勘弁してもらおう。
「あ、いや、気難しいってそんな悪い意味じゃないんだ」
 青年は慌てた様子で付け足した。
「わかってるさ。足を怪我しちまって、立ち往生してたんだ。悪いけど峠を下るまで手を貸してくれないか」
「もちろん、一緒に旅してくれる人は大歓迎! 俺はパン・セジーラ、よろしく」
「サハルトだ」
 ファミリーネームがないサハルトは名だけを答えて、差し出された手を握り返した。かがみこんだパンの背に槍があったが、握り返した手は武人というより楽器をよく弾きならした楽師の手に思えた。
 パンはそのままサハルトの前に膝をつき、荷物を下ろした。
「早速だけどサハルト、怪我したのってどっちの足だ」
「左だ」
 ズボンの裾をまくり足首を出すと、パンは思わず声を上げた。サハルトも自分のことながら眉をひそめずにはいられなかった。足を滑らせた直後は多少の赤みがあるくらいだったが、今はパンパンに腫れ上がっている。
 見ていると痛みが増す気がしたので、サハルトは目を逸らした。
「派手にやったんだな。けっこう痛いんじゃない?」
「確かに、思ったよりも酷い。水をケチらずに冷やすのに使っちまえばよかった」
「今からでも遅くないって。手当て、俺がやっても平気?」
「悪いな、頼む」
 手当のため靴を脱ぐだけだったのに、普段の倍以上の時間がかかった。なるべく足首を動かしたり触れたりしないようにしたが、うめき声が漏れた。パンに見えないように脂汗を拭って、素知らぬ顔を装った。
 パンは自分の荷物を漁って適当な布を取り出すと、槍の穂先を使いながら細長く裂いていった。サハルトが靴を脱ぐのに四苦八苦している間に、十分な長さの包帯が出来上がっていた。
「これ、杖の代わりにするにはちょっと重いかな」
 包帯を巻き終わると、思いついたようにパンが槍を示した。
 元々の腫れもあって、包帯を巻いた後の足では靴を履けない。松葉杖になるものが必要なのは確かだったが、槍はサハルトの手に余った。彼が言った通り見た目よりも重かったし、刃が納めてあっても手にすると緊張した。
「みたとこ楽師だと思ったが、あんた本業はどっちなんだ」
「本業は見た通りの楽師。こっちはただの護身用だよ。あちこち旅して廻ってるんだ」
「なるほど。ガトバルから海を越えるんだな」
「そ、よくわかったね」
「昔から、海を越える旅人しか来ない街だからな」
 一年を通して港を利用できるのが売りのガトバルだが、交易はあまり盛んでない。一番近くの街へ向かうには険しい峠を越えなければならず、峠を避けたり他の街に向かったりするには海沿いを長く歩かねばならないからだ。海沿いの道は歩きやすいが水が得にくく、常に潮風に晒されるため隊商はあまり好まなかった。
 すると、集まるのは山越えができる身軽な旅人ばかりになる。街には安価な宿屋と旅の必需品を扱う商店が多いが栄えているという印象はない。
「サハルトは、このあたり詳しいのか?」
「ああ、生まれがガトバルなんだ。最近は、離れて暮らしてたけどな」
 帰るたび少しずつ街並みは変わったが、海から吹く風の匂いは昔から変わらない。冬に峠を越えるたび、故郷に戻ってきたのだと実感した。
「んじゃさ、せっかくだし麓までじゃなくて、街まで一緒にいこう。なんなら俺が背負ってくよ」
 迷惑じゃなければだけど、とパンは付け加えた。
「……良いのか? 俺は助かるが、街に着くのが遅くなっちまうぞ?」
「いいって。別に俺も急ぎの旅じゃないし、怪我人ほうっていけないよ。詳しい人がいたほうが、俺も助かるしさ」。
 願ってもない申し出だったが、背負って峠を降りるという件だけは丁重に断った。
 話し合った結果、サハルトはロバの背にのり荷物のいくつかを肩代わりしてもらうことになった。野営のための装備はいくつか捨てていくつもりでいたのだが、パンは断りを入れてから手際よく荷物をまとめなおし、槍にかけた。
 どうやら見た目以上に力があるらしい。サハルトを背負うというのも冗談ではなくやり遂げられるのではないか。そんな考えが頭をかすめたが、実践されてはたまらないので手を借りながら黙ってロバの背にまたがった。
 世話になりっぱなしというのも気が咎める。街に着くまでの間の食事は頼ってくれて構わないと申し出ると、パンは大げさなくらいよろこんだ。そういえば彼自身の所持品はかなり少ない。十分な食料や野宿の準備があるようには見えなかった。
「パンは、随分軽装なんだな」
「うん、もともとあんまり大荷物背負ってくほうじゃないんだ。ガトバルには三日くらいでつくって聞いてたし」
「確かに慣れてりゃそのくらいだが、もっとかかったろ。道中、大丈夫だったか」
「そうなんだよなー。もう少しで空腹で動けなくなるところだった。サハルトに会わなかったら餓死してたかも」
「そりゃ、心配ない。こう見えて人通りは多いし、このあたりも全く人が住んでないわけじゃないからな」
「そうなのか? ガトバルまで街はないって聞いてたんだけどな」
 知らないのも無理はない。地図を見てもこのあたりに街などないし、実際のところ村や集落の類があるわけでは無い。このあたりには昔から山羊の飼って暮らしている一族がいるのだ。少しずつ土地をかえながら放牧で生活しており、必要な物がある時だけ街道や街におりてくる。
 旅人にわざわざ彼らのことを説明する人間はあまりいないが、このあたりの街道をよく行き来する人間なら知っていることだ。彼らに出会った時のため、荷物を少し多めに持って峠を越える旅人も少なくない。砂糖や香辛料、刺繍糸、麻布あたりは重宝される。遊牧の民が対価として差し出すのは、毛織物やチーズ、干し肉、高地に生える薬草など、どれも旅に役立つだけでなく街に持っていけばそれなりの値で売れる。
 懐かしくとも目新しさはないそれらの話を、パンは興味深そうに聞いた。
「じゃ、この荷物はその人たちと物々交換したものってことか」
「いや、“交換するはずだったもの”だ。越冬の準備で街道近くに来てるんじゃないかと思ったけど読みが外れちまったな。足も挫くし、今回は災難続きの旅だった」
「でもほら、その分これから良いことが起こるかもしれないし、おかげで俺もサハルトに会えた。悪いことばっかじゃないだろ」
「確かに。余った食料にも、売るよりも良い使い道ができた」
 楽器と同じくらい使い慣らされた槍は、旅が楽しいだけのものではないことを知っている証だった。それでも尚、出会いを喜び旅を楽しむパンにサハルトは尊敬の念すら抱いた。このあたりに初めて訪れるというパンは今までどこにいて、どんな旅をしてきたのか彼自身の口から聞きたい。
 サハルトの興味には、彼しか知らないであろう音楽の事も含まれていた。実のところ一目見たときから、パンが手にしている見知らぬ楽器が気になって仕方がなかったのだ。
「よければ、後で楽器を見せてほしい」
「あ、俺も俺も。さっき弾いてるところ見たときから気になってたんだ。俺のはリュートとだいたい同じなんだけどさ。リュートは知ってる?」
「いいや、知らないな。糸物全部を把握してるってわけじゃないが、あの音色は聞いたことがない」
「そっか、確かにこの大陸に入ってからは見たことないかもなぁ」
 まだ国境を越えて旅をしたことがないサハルトにとっては、ずいぶんと規模が大きな言葉に思えた。
 この国は、内陸部に誰も領有権を主張したがらないような不毛の大地を内包している。豊かさや文化の発展は乾いた砂には一向に染み入らないようで、砂漠はこの国の文明に大きな穴を開けていた。安全に旅をできるのは砂漠の周囲に広がる草原帯までで、そこより先にはただ生きていくことすら難しい地を故郷と定めた、強かな人の暮らしがあるだけだ。
 街から街へ旅することもあれば命の危険が伴う内陸に赴くこともあったが、まだこの国には行ったことがない土地がたくさんある。同じ国の中でさえ人の暮らしには信じられない程の違いがあり、想像もできないような景色との出会いがあった。国境を越え海を越えたその先の景色というのがサハルトには想像もできなかった。
「もう世界の半分は旅しちまったんじゃないかって口ぶりだな。このくらいの広さの国は珍しくもないのか?」
「たしかに、この国も広かった。でもいくら旅しても世界は広いなって実感するだけだよ。たぶんどこまでいっても、もう十分とか半分は来たなとか、思うことないんじゃないかな」
 この国から出たことすらないとは、気恥ずかしくていえなかった。
「ならその広い世界の話を聞かせてくれ」
「長くなるよ」
「急ぎの旅じゃないって聞いちまったからな」
「じゃ、少しだけ。日が暮れるまでは、俺の話するよ」
 経験豊富な旅人の多くがそうであるように、彼もまた優れた語り部だった。言い回しが巧みなわけではないが、飾らない言葉で語られる異国の物語は耳に心地良い。
 豊かな国や戦火に燃える国のこと、奇妙な景色や生き物のこと、魔法のごとき力を使って暮らす人々のこと、翼を持たずに空を飛ぶ術。いくつかは到底現実とは思えないような不思議な話で、サハルトを沈みゆく夕日の更に先にある夢の国に誘った。
 太陽の光が赤みを帯びて地面に黒と赤のコントラストを描く頃、野営地についた。道端に生えた古いイチジクの木が目印になっている岩かげの窪地だ。真ん中には数日前のものと思われる焚火の跡が黒く残っていた。水場への道は先人たちが何度も往復し、踏み慣らしたおかげで初めて来た人間にもわかりやすい。
 一人でも大丈夫だというパンの言葉に甘え、サハルトは水汲みを任せて火を熾し食事の用意をはじめた。黒パンを厚く切り分けて、横に深めの切り込みを入れる。温めたナイフでバターを掬って切れ込み部分に塗り込んだ。ここに薄くスライスしてあぶった魚の燻製を挟めば完成だ。
 程なく水を汲みにいったパンが戻ってきたので、お茶を淹れると二人で焚き火を囲んだ。
 特製のサンドイッチを半分も飲み込まないうちに、パンの期待に満ちた視線に気づいた。夜は長いとはいえ、サハルトの旅のことやお互いの楽器のことなど話したいことは沢山ある。食事もそこそこに、荷物の中から自分の相棒を引っ張りだした。
「先にダルチャの話をしちまうか」
「ダルチャっていうんだな。この国の伝統楽器かな」
「そうみたいだな。もともとは“わたりうたい”が使ってたんだ、よく考えりゃ他の国にあるわけないか」
「わたりうたい?」
 パンの瞳が薄暗がりの中でもわかるくらいに輝いた。
 わたりうたいは風の精を鎮め、船や港の安全を守るために歌う者たちのことだ。冬場、ガトバルを出航する船はわたりうたいを必ず乗せている。海が凪ぐ季節になると彼らは国内外に散って、楽師あるいは吟遊詩人として暮らす。そして、また冬になる頃に戻ってくるのだ。
 冬に歌い夏に去っていく彼らを、誰かが渡り鳥に見立ててわたりうたいと呼んだのが、始まりといわれている。そしてわたりうたいが用いるのがダルチャだ。
 風の通る土地に生えた重い木に浜に住まう獣の皮を張り、弦には沖に住む鱗のない巨大な魚の腸を用いる。
 夏を過ごす間はそれぞれの仕事に合わせ楽器も変えるし異国の歌も歌うが、冬は必ずダルチャを鳴らし古い言葉で綴られた詩を歌う。その二つが、古の精霊に言葉を届ける唯一の方法だ。
 柔らかいが響きにくい楽器の音を補いながら声で旋律をなぞり、風にのせるように歌うのは遠い昔の言葉だ。きっとダルチャがこの世に生まれたときに、詩も共に生まれたのだろう。
 今日、何度目かになる旋律を口ずさむ。風にのせるだけだった詩を、今はパンのために歌った。
「風の精に届けるための歌だからかな、遠くにいてもよく聞こえたんだ」
「特にあそこの谷間はよく響く。かわりに音が散っちまうから出処はわかりにくいんだけどな」
「確かにはじめはどこから聞こえてくるのか、全然わかんなかった。サハルト見つけるまでずっとキョロキョロしてたよ」
「転ばなくてよかったな」
 サハルトは自分の腫れ上がった足首を指す。
「本当にね」
 パンは屈託無く笑ったあと、急に真面目な顔になった。 
「そういえばさ、サハルトの方は大丈夫なの? わたりうたいは冬にはガトバルに戻ってなくちゃいけないんだろ」
「ああ」
 サハルトは手の中のダルチャを見つめた。わたりうたいと同じように自らの手で作り長い時間をかけて弾き鳴らしてきた相棒。子供の頃から耳にしてきたのと同じ旋律。
 潮風の匂いを運んでくる冬風は冷たく、どんなに歌っても和らがない。いつもより少し長い旅に出ようと、ガトバルを発った時と何ひとつ変わってはいないのだ。
「……俺は違うんだ。わたりうたいじゃない。だから急がなくてもいい」
「そっか、誰でもなれるってわけじゃないんだね」
「そうみたいだな。茶は?」
「もらうよ、ありがとう」
「そっちは、確かリュートって言ってたよな」
「あ、うん。リュートっていうか、リュートっぽいもの……かな」
 それはリュートという異国の楽器を参考にして作ったものだという。胴の形や弦の本数が異なるというのだが、サハルトはまずリュートの説明からしてもらわねばならなかった。卵を半分に割ったような形をした美しい曲線を描く胴が特徴的なのだという。
 パンの持つそれは卵形ではなかったが、弦を張った指板が大きく後ろに折れ曲がった形をしているのが目を引いた。弦は細いが同じ音程に合わせてあるものが二本あり、それがあの軽やかで不思議な音を生んでいるらしかった。
 手に持ってみると見た目の割に随分と軽かった。木の材質もあるがどうやら胴はかなり薄い板でできているらしい。
「すごいな」
 サハルトはその造形に、感嘆の息を漏らした。
 とても繊細で美しい形をしている。
「よその国の楽器を見るのは初めて?」
「いや、前もあった。その時も目を奪われちまったな」
 今でも鮮明に思い出すことができる。ガトバルの酒場で、旅人が手慰みに鳴らしていた楽器の美しさに魅了された。サハルトは彼に頼み込んで滞在を延ばしてもらい、連日質問攻めにしては困らせた。
 音色は異なるが、パンのもつ楽器と基本の構造は似ていたように思う。もしかしたら、源流を同じくするものだったのかもしれない。聞いておけばよかった。どんなに詳しく話を聞いても、疑問が尽きることはない。
「俺のことも質問攻めにしてくれていいのに」
「反省したんだ。楽器が目の前にあるのに、音を聞かないのはもったいない」
「そうだね。一曲、どう? 昼間の続き」
「二曲でも三曲でも構わないさ」
 最初は相手の出方を待ち、探るように音色を重ねた。初対面の人物と言葉を交わして親しくなっていくように、音を交わして相手を理解する。近すぎず遠すぎずの一番心地よい距離をつかむのにさほど時間はかからなかった。
 躊躇いがちだった声は徐々に伸びやかになり、ぎこちない指先もほぐれ音は軽やかに踊る。合奏から始め重奏へ。掛け合いを楽しみ、競うように奏で歌った。
 気温が下がるほどに空気は澄み渡る。海から吹き付ける風は二人の音色をのせ、谷間を駆け巡って冬の空に広がっていった。

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