アイプトルスの紅珊瑚


 岩山を一つ越えて汗を拭う。覗き込んだ羊皮紙の地図に、汗の雫が滴った。
 見上げた先では、人の胴ほどの太さの蔦が軋みながら揺れている。その先に繋がった岩石の重さで今にもちぎれてしまいそうだ。
 アイプトルスの浮き丘は、風が吹くたびに岩のぶつかり合う音が雷のように鳴る。
「休憩するか」
 後ろに声をかけると、アクルも顔を上げ額の汗を拭った。
「そうだね、この辺は地面も平らだし、ゆっくりできるかも」
 荷物を降ろし柔らかい草に寝転がると緑の匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。アクルも隣に腰を降ろし、水を飲む。カバンからドライフルーツを取り出し、口に含む。
 羊雲が空をゆっくりと移動してゆく。
「みつかんねぇなぁ」
「帰りの道もあるから、急がないとね」
「この辺り野営には向かないからなぁ」
 シャイラスが勢いをつけて立ち上がったとき、地面がぐらりと揺れた。危うく転げ落ちそうになったシャイラスの袖をアクルが掴む。
 背後に引っ張られて草地に尻餅をついた。
「大丈夫、シャイラス」
 慣れない登山で上気していた頬から、血の気が引いていた
「ああ、アクルは平気か」
「私は大丈夫、フィーがいるし」
 精霊の力を借りて、浮かび上がって見せたアクルのすぐ後ろには、虚空が口を開けている。
 浮き丘は季節が夏から秋に移り変わると、丘全体が天空に浮かび上がる。
 持ち上げているのは大地に食い込み岩石を削り出す巨大蔦、そこに実る果実だ。凄まじい浮力を秘めた木の実は、熟すと空に飛び出し、上空で弾けて種子を撒き散らす。
 岩と蔦が上に向かって垂れ下がり、海藻のようにゆらゆら揺れている浮丘の風景は、アイプトルスを象徴するものの一つだ。柔らかい草に覆われた岩肌と、人よりも大きい蔦のうねりが絡み合う様は大蛇とゴーレムの大戦争にもみえた。
 実際、秋の浮き丘は戦場とまではいかないまでも危険な場所であることに変わりない。
 地面は風が吹くたびにぐらぐら揺れ、油断をすれば岩に押しつぶされてしまうし、落石の危険が付きまとう。
 そんな場所に探しに来たのは、巨大蔦の浮かない木の実だ。浮力がなければ実は熟した後も千切れていかずに残る。そうすると普通の実よりもたっぷりと栄養を吸い、熟成されて万病に効く良薬ができるのだという。
 ランプのようにみえる実自体はそこら中で見ることができるのだが、浮かない実となるとそう簡単にはみつからない。
 陽のよく当たる斜面で見つかるらしいのだが、果実が実る前と後では地形がまったく変わってしまっているので、どこが日当たりが良い斜面だったのかわからない。
 依頼を受けたギルドから地図を貸してもらったのだが、三次元的に広がるアイプトルスの浮き丘を記す特殊な図法は容易に読み解けない。
 今回ばかりは道に迷うのも、シャイラスのせいとは言い切れなかった。
「お手上げだ。さっぱりわかんね」
 もう一度、柔らかい草に寝転がる。そうして横になっていれば多少の揺れで、転げ落ちる心配はない。
 見上げた先では相変わらず羊雲がゆっくりと流れ、岩のぶつかる音から耳を塞げばのどかな風景だ。
「俺たちの故郷に比べると、雲が多いよなぁ」
「雲にそれぞれ名前があるんだって。今日出てるのは羊雲だよ」
「羊雲?」
 シャイラスが腕を組む。その言葉を、ごく最近どこかで聞いた。この街に来てからだ。
「昨日、広場で聴いた歌でそんなこと言ってなかったか」
「吟遊詩人の? そう言われれば、そんなこと言ってたかなぁ。竜とか珊瑚とか出てくる歌だよね」
「それだ!」
「それ? どれ?」
「浮かない実の種子は、その色艶と希少さから宝石珊瑚に例えられるって、昨晩読んだ本に書いてあったんだ」
「朝遅いと思ったら、また夜更かしして本読んでたんだね、シャイラス」
「まあ、それはいいだろ。あれって、確か羊雲の流れる季節に、竜が巣を作るって歌だったよな。その巣に守られてるのはアイプトルスの紅珊瑚。毎年地形が変わって地図が残しにくいから、”お宝”の場所は歌で残したんだ」
「そっか、アイプトルスに海はないから、珊瑚っていうのは依頼の浮かない実ってことだね」
「推測でしかないけど、地図が読めないし時間もないんだ。賭けてみてもいいだろ」
「うん、ダメだったら明日また来よう」
「じゃ、探すべきは竜の巣だな。多分、竜ってのはこのでっかい蔦のことだと思うんだ」
「巣って行ったら、お家とか子育てするところとか、みんなが集まってる場所とかかな」
「集まって入るところか」
 シャイラスは立ち上がった。しっかりと構えていれば、不安定な地面の上でも転ぶことはない。巨大な剣を振り回して戦う彼の足腰は強い。
 鋭い紫眼をさらに細めて、蔦の流れをたどり目当ての場所を探す。
「あそこだ」
 シャイラスの指差した先には、多くの蔦が集まって蜘蛛の巣のようになっている場所がある。いくつか実がなっているのがここからでも見えたが、それが目当てのものかどうかここからでは遠くて判断できなかった。
「ここから行こうとすると、ちょっと遠回りになるな」
「私に任せて。フィー、お願いできる?」
 シャイラスには見えない風の精がアクルに答えて、栗色の毛を揺らした。
 アクルの精霊魔法を信じていないわけではないが、ためらいなく断崖から身を躍らせる姿には肝を冷やした。
 岩と蔦の動きに気をつけながら、慎重に登ってゆく。広がったケープで顔は見えなかった。
 着地したアクルが声をあげた。何が危険があったのかと身構えたが、こちらに顔を向けた彼女は笑顔だった。
 アクルの魔法でシャイラスも同じ場所に行く。足が地面から離れて空中に体が持っていかれると胃がひっくり返りそうになったが、平静を装った。
 再び自分の足で立った時、眼前に広がる光景にシャイラスも思わず声をあげた。
 卵のようにびっしりと、丸い実が並んでいる。半透明の皮の中は中空で、流線型の赤いの種子が詰まっている。
「卵がたくさんあるようにみえるから竜の巣なのかな」
 隣にたつアクルが呟く。
「かもな。見つからなくても、この景色がみれただけで意味はあった」
 幸い、探しているものはすぐに見つかった。
 上に真っ直ぐとのびる実の中で、いくつか重力にしたがって垂れ下がっているものがある。それは他よりも一際濃い赤色の種をつけていた。
 どうやら浮かない実というのは、半透明の皮が破けて中の空気が抜けてしまったものらしかった。見た目に反してなめし皮のように硬い外皮を破き、中の種子を回収していった。

 ギルドに依頼達成の届け出を出し、報酬を受け取ったシャイラスは宿の酒場で先に戻っていたアクルと合流した。
 先に飲みはじめていたらしいが、それほど酔った様子はない。
「シャイラス、どうだった?」
「ああ、たくさん取れたからボーナスも出た。今日は、贅沢できるぜ」
「やったね。私の精霊魔法、役に立ったでしょ?」
「役に立つどころか、アクルがいなかったらあんなにうまくいかなかった」
 アクルは照れて、くすぐったそうに笑った。
「そうだアクル、ちょっと手貸して」
 言われるがまま差し出したアクルの手のひらに、親指ほどの大きさの流線型の粒が乗せられた。血のように深い赤で、表面はツヤツヤと光っている。石のように見えるが、驚くほど軽いそれは、今日収穫して来た実の一つだった。
「シャイラス、これ」
「それ未熟果で、中身が入ってないらしいんだ。装飾品に使えるっていうからもらって来た」
「もらっていいの」
「俺が持ってても使わないだろ」
「ありがと」
 弾む声でお礼をいうと、アクルはそれをそっとテーブルに乗せた。揺れる蝋燭の火が艶やかな表面に反射し、水面のような光を放っている。
「じゃ、今回の旅に乾杯」
 竜の守る至高の宝。
 アイプトルスの紅珊瑚。
 うろ覚えの吟遊詩人の歌を口ずさむと、酒場の歌い手たちが続きを引き取った。

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