イタリアンレストランの二人


 田奈はエプロンを外した。モップをとりだす。
 これから掃除である。客席の椅子を一つ一つあげてゆく。毎日のこととはいえ、一日中立っている仕事は足が疲れた。その上、今年はこの暑さである。休日が待ち遠しかった。
 店は明日からお盆の休業期間に入る。久しぶりのまとまった休みだ。実家に暮らしている田奈には、帰省の予定はなかった。
 一日の終わりは体が重たい。掃除をする手が鈍る。
(年かな)
 年を自覚するごとに将来のことを考えずにはいられない。今の田奈には、どうせこの先もずっとこの店で働いているんじゃないかというぼんやりとした考えしかない。若い子の方がいいからクビと言われてしまったら、それまでだ。
(接客だしなー、俺)
 見栄えがする方が優遇される職であることは、確かだ。
 モップの柄に顎を乗せて、ため息をつく。
 兄妹が帰省してきたりするとそんなことを考えてしまう。生まれたばかりの子供を連れてきてちやほやとされる妹を見ていると、未だに家に居座っている兄は肩身が狭い。
 掃除を終わらせて、モップをしまう。疲れ切ってはいるが、手は抜かなかった。本田の店だが客が来なくなったら困るのは田奈も同じで、クレームを受けるのもたいてい田奈なのだから。
「本田さん、あがります」
「うん、お疲れ」
 本田は食材を抱えて、二階の自室にあがろうとしている所だった。
「どうしたの、それ」
「秋の限定メニュー企画中。アイデア募集」
「なんか、普通にカボチャとか。あとサツマイモ」
「例年通り」 「ダメか? 期間限定っていいつつ毎年でてくるのが、季節ものじゃない」
 本田は黙った。
 失言。
 田奈も黙り込んだ。田舎だがそれなりにいい場所にあるレストランは、本田と田奈の二人で切り盛りしている。店長は本田。調理全般を請け負っているのも本田で、田奈は専ら接客その他を担当している。
 本田には店をやっていることに対するプライドがある。それに対して遠回しにどうでもいい、と言ってしまった田奈は口をつぐむよりほかは無かった。
「じゃ、お疲れさま」
「お疲れ」
 本田は二階に上がっていった。
(こういうところがだめなのかな、俺)
 接客をやっている癖にいまいち気が利かない。というか、空気が読めない。
(本田さん、彼女いたっけ)
 互いにいい年だ。
 田奈の恋は夏になって熱く燃え上がるかと思いきや、夏バテ気味に溶けてなくなってしまった。
 自分がもう若くないことが、骨身にしみてわかった瞬間だった。もう何事にも全力を投げ込むような体力は、残っていないのだ。
(同級生同士で結婚するとして・・・)
 クラスメイトの顔を思い浮かべる。出会いが、ない。
 仕事ではたくさんの女性とふれあっているが、逆ナンならともかく店長の見える所で女性を口説くのはいかがなものか。
 周囲のお客に対する印象も悪いし、そもそもそんな暇はない。
 出会いの場を同級会に求めている時点でダメかもしれない。
(老いを実感するのが辛い)
 店の外は、湿度の高い日本の夏の空気だった。町灯りに雲が薄明るく照らされている。一雨きそうな色をしていた。
 携帯がなっている。タオルケットをはねのけて寝ていた田奈は、手探りで携帯を探した
(電話・・・?)
 相手も確認せずに、出る。予想はついていた。
「うい、でた」
『本田だ。もしかして寝起きか?』
「いま、何時だ・・・?」
『十時過ぎだ』
「きょようはんいです」
『起きた方がいいんじゃないか、平日だぞ。その様子だと今日の予定はないのか?』
「えー、まー、たぶん」
 そこであくびを一つ。
「ない、とおもいあす。用事?」
 呆れたような本田のため息が聞えた。休日の田奈は、十二時過ぎてから起きるのが基本だ。
『昨日言った限定メニュー。お前も手伝え』
「へ?」
『スイーツ担当だろ。自分だけ楽しようなんておもうなよ』
 そう。料理全般は、本田の仕事。事前に一日のデザートを作っておいて接客に回るのが、田奈だ。注文を受けて作るという事をしないので、どうも厨房に立っているという実感がわかない。
「あ、えーと何時までにいけばいい?」
『すぐに来い。昼飯食べさせてやる』
「了解」
『こういう時だけいい返事しやがって』
 電話を切る。ただ飯は大歓迎だ。
「あ、なにいるか聞けば良かった」
 いや、自分がつくるのならいるものを持っていけばいいのか。
「なにつくればいいんだ、俺」
 顎にさわる。
「とりあえず、ひげくらいそるか・・・」
 昨晩は雨がふったらしい。何となく日陰のところが湿っていて、空気も湿度が高くて気持ちがわるい。休日とはいえ、店の周りにいく以上誰が見ているかわからない。一応の体裁を整えて、田奈は店に向かった。
 店の脇にある路地にはいる。格子で区切られ関係者以外は入れないように鍵がかかっているのだが、そこの鍵は田奈も持っている。
 路地を進むと階段がある。登れば本田の家だ。呼び鈴を押す。押してから返事を待たずに、ドアノブに手をかける。
 鍵がかかっていて、開かなかった。
「本田さーん。俺です、開けてください」
 扉の向こうでガタゴトと物音がして、扉があいた。
 時間は既に十二時になろうかという頃合いだった。
「遅いぞ。二度寝か?」
「違う。妹に捕まった」
「お前妹いたのか」
「いますよ、既に結婚してるのが。こう見えておじさんなんで。本田さんは? 一人っ子だったんだっけ」
 本田は頷いて部屋の中へ戻っていく。居間に入ると、椅子にかけてあったエプロンを付けた。どうやらこれからつくるつもりらしい。
「なに食べたい」
「アーリオ・オーリオ。バカみたいにニンニクが入ったすっごい奴が」
「におうぞ」
「だからだよ。こっちは接客だから、うかつにニンニクも食べられない」
「そうか。そんな気遣いしてるようには見えなかった」
「してるよ。こちとら常にシトラスの香りだよ」
「はは、初恋の味か?」
「・・・それ、カルピスだ」
「わざとわざと」
 本田は笑って、素焼きのニンニク入れからニンニクをとりだした。
 すぐに換気扇をまわしても吸いきれない、ニンニクの匂いが部屋に漂い始める。
 田奈はニンニク料理が好きだ。夏場も冬場も食べたい。だが、残念なことに匂い残るため、次の日仕事があるときは控えるようにしている。
「よりによってパスタなんて頼むなよ。仕事してる気分だ」
 パスタをゆでる本田の額には玉の汗が浮かんでいる。
「今日は仕事でよばれたんでしょ、俺」
「どうせ夕飯もパスタだぞ」
「別のものつくろうぜ。イタリアンはパスタだけじゃないんだし」
「はいはい。考えとく考えとく」
 さすがに、手際がいい。すぐに、田奈の大好きなニンニクがたっぷり入ったアーリオ・オーリオが食卓に並んだ。
「例えば、里芋とかも、いいと思うんだわ。和風な感じに」
「どうした、いきなりまじめだな」
 本田はテレビを付けた。パスタを食べるときにスプーンを使わない派だ。イタリアンのレストランを経営しているものとして、子供の作法を真似する気にはどうしてもなれない。
 と、本田は主張する。田奈は単にデザートを作っているだけで、食べ方などどうでもいい。しかし、本田があまりにしつこく主張するので、スプーンを使わなくなっただけだ。慣れればどうということはない。
「いや、ほら一応昨日のこと悪いと思って」
「ん、あー。あれか。ま、お前に失言が多いのはわかってるからな」
「そんなことはない」
「そうか?」
「仕事中は失言したこと無い」
「仕事中なんて決まったことしか言わないだろ。いつ失言する」
「はー、手厳しい」
 食べ終わると、田奈は食器をもってのろのろと立ち上がる。料理を片方がした場合、もう片方が洗い物をするのが二人のルールになっていた。
「んで、あの、本田さん」
 洗い物をしながらでテレビも付いているので、声を少し張り上げなければならなかった。
「んー?」
 テレビを見ている本田の返事は適当だ。
「俺もなんか新しいの出した方がいいのー?」
「当たり前だろ」
「デザート?」
「他に何があるんだ」
「じゃ、今から三時のおやつの時間に向けて作った方がいいと」
「そういうこと」
「なにがいいの」
「それこそ、なんでもいいだろ。デザートなんだから」
 イタリアンのレストランだが、イタリア料理にこだわっている訳ではない。ある程度客のニーズに応えるため、イタリアのイの字も無いようなものもだしている。石焼ビビンバとか置いているし、夏場は冷麺とか冷やし中華が登場する。
 況んやデザートをや。一応ジェラートは置いている。しかし、どれがどこ出身のスイーツなのか正確に言い当てられる人など、客の中にどれほどいるのか。
 作っている田奈も本田ですらも、デザートの分野でのイタリアに対するこだわりなどみじんもない。
 食器を洗い終わって手を拭くと、冷蔵庫を開ける。
「適当にかりる」
「足りないもんは自分で買って来い」
「うい」
 今のうちに何を作るか大体決めておかないと、直前になって買い物にいかなくてはならない。
「じゃ、買い物いってきます。なんか欲しいものは?」
「ない。いや、ある。紅茶とか、適当な飲み物。さすがにまだ里芋は出てないだろうな」
「全然、まだだと思うけどな。かぼちゃ使ってもいいですか?」
「使え使え、なんでも使っちまえ」
「本当ですね、本田さん」
「給料から引いとくからな」
「最低ですね、本田さーん」
 冗談冗談、といって本田はテレビの前のクッションに横になった。
 ご飯と冷蔵に入っている食材は本田のおごり。そして足りないものは田奈の自腹だ。どちらにしろ本田から払われているお金なんだけど、と思いながら家を出る。最寄りのスーパーはぎりぎり徒歩でも許せる距離だ。自転車があればありがたいが、本田は自転車を持っていない。
 焼き菓子を作るなら適当なカップ。あと砂糖が足りないかもしれない。そして、アーモンドパウダーが欲しい。卵も買い足しておかないと使い切ってしまう。そこはちょっとは気を遣おう。
 外は頭が痛くなるくらい暑い。本田の家は冷房が効いていることを実感した。
 買い物から帰ってくる。呼び鈴を押すが返事が無い。ドアの鍵はかかっていないので入っていくと、本田は家を出たときの姿勢のまま寝ていた。
「このおっさんは」
 勝手にエプロンをかりて付ける。
「あ、飲み物忘れた」
 うっかりしていた。
 本田さんも忘れてるだろう。覚えてたら、今度は本田さんに買い出しにいってもらおう。
 もう外に出るのはごめんだった。昼下がりなんて、一番一番日差しがきつい時間帯じゃないか。
 田奈は冷蔵庫からカボチャをとりだした。

 甘い匂いで、本田は目を覚ました。テレビは付けっぱなしだ。いつのまにやら主婦が見るようなドロドロしたドラマが、流れていた。
 適当にチャンネルをまわして、ニュースを探す。明後日からはしばらく雨のようだ。
「気温さがるといいな」
 誰にいうでもなく呟く。本田が起きたことに気づいて、田奈が声をかける。
「ごめん、飲み物忘れた」
「ああ、コーヒーあるだろ。インスタント。それ入れて」
「了解。んで、これかぼちゃプリン」
 自慢げな顔で突き出してきたそれを、本田はまじまじと見つめる。
「焼いたか?」
「勿論」
 本田はゼラチンで作るプリンは手抜き、と断定している。故に、田奈は手間ひまを惜しまない。
「なあ、田奈。巷ではそういう顔ドヤ顔っていうらしいぜ」
「知ってるよ。年寄りと一緒にすんなって」
「同じ世代のくせに。二つ三つしか違わないだろ」
 スプーンとあわせてテーブルに並べる。本田はけだるそうに歩いてきて、椅子に座った。インスタントコーヒーもプリンの隣におく。
「新メニュー、これでいい?」
「ダメ。器が足りなくなる」
「え、足りるだろ。ケーキにしたって解決しないぞ、その問題」
「お前、ババロアとかブリュレとか似たようなもんばっか作り過ぎ」
「へー」
 田奈もプリンを食べる。
 なかなかの出来だ。甘さ控えめ。
 ババロアとかが甘いから、味がかぶらないように甘さを控えた。舌触りが滑らかで柔らかいのがウケるのはわかっていたが、あえてかためにもしてみた。
「里芋、手に入らないからなー。味のイメージだけ付けといて、あと回しになるかな、結局」
 味は、本田も問題がないと思っているらしい。不満を言わない。料理に関することはなんだかんだで汲んでくれるのが、本田だ。
 田奈は、テーブルに突っ伏した。
「夕飯は、ピザがいい」
「チーズが無かった気がする」
 顔を上げない。
「田奈、どうした」
「今の、あー。うん、わかった。わかったけど、いや、結構傷ついた」
 似たようなもんばっかとか。
 結構、俺も考えてる。ブリュレは日替わりが売りで、毎日同じものは出していない。
「本田さんが失言って、珍しい」
「そうか」
 本田は涼しい顔をしている。見えないが、たぶん絶対にしている。
「で、かぼちゃプリンだすのか」
「ボッコノット」
「わかった」
 顔はあげないが、本田がニヤリと笑ったのがわかった。
 本田は時々性格が悪い。
「くそ店長」
 こっそり言ったが、殴られた。
 夕飯は要望どおりピザだった。
 チーズを買いにいったのは、もちろん田奈だ。

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