朱色の声は風を呼び


 緩やかな風が赤銅色の岩肌を撫でてゆく。さらさらと小動物の足音のように細やかな音で、砂が落ちてくる。赤で統一された世界。時とともに微妙に移り変わってゆく色合い。波打つように形作られた壁。
 その波は、ここを通り抜ける風の形だ。緩やかで美しい至高の芸術。この場所がどこよりも美しい。朽ちてゆくまでの時間をこの芸術とともに過ごせるのなら、その命にはそれだけの価値がある。
 岩石が長い時を経て柔らかな曲線を描くように、長い時を経た命は滑らかで穏やかだ。外の騒がしい色はない。ここにあるものは既に完成され、満ち足りている。身の回りにあるもの全てが完璧な芸術なのだ。
「うわああああ!」
 耳に飛び込んできた粗雑な音に、夢うつつの世界を遮られた。起きているときは夢を夢見てまどろみ、寝ているときは目覚めを望んでまどろんでいる。既に眠りと覚醒の違いなど無いに等しくなっていた。
 己の耳がまだ現実世界の音を捕らえたことに驚きながら、耳をそばだてる。
 ああ、酷く幼い。
 芸術というにはあまりに荒削りで、激しい。命はまだ定まった色がなく移ろいやすく、落ち着かない。
 ああ、まるで塗り立ての絵の具。
 乾かぬうちにそう急くな。
「もー! シャイラスったら」
「いや、地図がおかしいんだって。こんな所に穴があるなんてかいてなかったぜ」
 音が洞窟内に反響する。
 ああ、調和が。私の愛した調和が崩れてゆく。
「そんなことより外に出るのが先だろ」
 それは人のようだった。反対側にあるいていけばよいものを、こちらに近づいてくる。その存在はイレギュラーだった。イレギュラーが発生した場合どうすればいいのか、私は知らない。かつて同族が人に遭遇した場合にどうしたかを知らない訳ではない。だが、それをすると自分のみならずこの場所まで傷ついてしまう。
 肉体の傷は生きるうちは癒えるし、命が無くなれば多少の傷など意味をなさない。しかし場所の傷はどうだろうか。この滑らかな壁に傷がついた時、再び風がそれを癒すまでにはどれほどの時がかかるだろう。
 まんじりとしている間に、突然現れた人は私のいる空間までやってきた。感嘆の声が上がる。当然だ。この場所は完璧で何よりも美しい。
 仲間が何人でも身を横たえることができる広い広いドームの天井に亀裂が入って、赤い岩肌を照らしている。遠い昔にいくつもの層が重なってできた岩盤は、大昔の地層の名残の筋が横に走っているのが見える。外には岩石と固い地面でできた荒涼とした大地が広がっているが、この中はとても穏やかで、風の音と砂が流れる音しか聞えない。異空間のようなこの場所に辿りついて驚嘆しない者などいるはずが無い。
 しかし、この幼い者たちが言いようのないひずみを起こしているのだ。
 黒い岩の小山がそこら中に点々としているこの広場は、小さい彼らには随分と歩きにくいようだった。随分ともたついていたが、とうとう彼らは私の目の前までやってきた。
「君たちは、何を思ってこの場所に来た?」
 随分と長い間声を出していなかったが、恙無く喋ることができた。
「ド、ドラゴン」
 二人の人の子のうちの一人が、引きつったような声を出した。
 ゆっくりと首をもたげる。眠っている間に随分と体が大きくなったようだ。見える景色が記憶と食い違った。その変化に戸惑って目をしばたかせ、人の子二人をまじまじとみる。
 鋭い眼光の少年は剣を抜いて構えた。同族の中には、鋼すら通さぬ固い鱗を持つものもいるという。しかしながら、私の鱗は脆い。少年が斬りつけたとしたら刃こぼれくらいはさせられるものの、刃はこの身の肉にしっかりと届くだろう。
「来たくて来たわけじゃねぇな! ま、正直、来てよかったと思うけど」
 こちらを警戒した様子で構えた少女から、透明なものの気配がした。人以外のものの声が聞けるのなら、悪い者ではないだろう。悪い色ではなかった。しかし互いが悪人でなくとも、誤解が生じれば諍いは止められない。
 ここで討ち果たされるとしても、それをどうこうするつもりはなかった。もとよりここで朽ちることを目的としていたのだから。その終わりが穏やかでなかったとして、なんの不都合があるだろう。赤い洞穴の中で赤い血は周囲と溶けこんで見えなくなってしまうだろう。
「人の子が外に出る道はここには存在しない」
 剣先が僅かに下を向いた。驚いている。くるくると、水に映った光がひらめくように色を変えていく感情を、興味深く見守った。今は、絶望の色が混じっているように思う。
「じゃ、あなたはどうやって外に出ているの」
 少女を取り巻く透明な命が騒がしい。彼らは自らの境遇に不安など抱いていないようだった。
「私は外に出たことはない。外に出ようとしたことも無いし、これからも出る必要ない」
「出たこと無いって……なに食って生きてんだ?」
 生き物ならば、少年がそんな疑問を抱いたのはもっともだ。ここには水も食料も無い。従って人の子が生き延びる術はないのだが、私は食べ物を必要としない。
 少年の剣先は今や完全に下がっていた。敵を屠るのではないのか。
 人の世の中で、同族は一般的に敵と見なされているという。私たちドラゴンが人を襲うのか、人がドラゴンを襲うのかは知らないが友好的な関係にないことは確かなのだろう。
「なにも。私にはなにも必要ない」
「と、いうことは」
「私たちのこと、食べちゃったりするつもりもない……?」
 そんなつもりは全くない。呆れまじりのため息をつきながら首を横に振った。二人は安心したようで、戦闘の構えを説く。まだドラゴンという見知らぬ種族に対する恐怖の色がにじんでいたが、瑞々しい感情の色彩の中に私を殺して人の世での名を挙げようという野蛮な色はみられなかった。
 人の子を驚かせないように、また間違ってもなぎ倒したりしないように気をつけながら頭を翼の下にしまい込む。一介の人の子に岩石を砕きこの芸術を壊すだけの力は持っていない。そして、そうする理由も無い。岩を砕いたところで、天に舞い上がることができなければ、ここから外には出られないのだ。
 ならば、私はもう彼らになんの用も無いのだ。
「なあ」
 少年は目の前にある手頃な小山に登った。そこに登ると首をもたげた私と視線が近くなる。私は再び顔を持ち上げた。期待に満ちた目に戸惑いを覚える。
「なにも食べないってことは、腹も減らないってこと?」
 純粋な好奇心。知識欲は嫌いではない。
 私自身、人と言葉を交わすのは生まれてから初めての経験だった。
「食べた方が長生きできるようだけれど、空腹は無い」
 少年は理解はしたが納得していないような表情をした。少年の横に少女が腰掛ける。
「外に出たいって思わないの?」
 少女はそう尋ねながら首を傾げた。共感できない感覚であるということは、知っている。人間という種族はいつだって外を目指し、自分の手で道を切り開くことを求めてきた。完成された芸術の中で一生を終える幸せを、理解できないのだろう。
「知識を受け継いでいるから、外のことは知っている。私は充分に外のことを知ったから、もう充分だと思う」
 空を見上げる。大地の割れ目から見える空は青い。まだ太陽が出ている時間なのだ。雨雲が見えることは滅多に無い。雨が降ることなど更に少ない。雨粒が鱗を撫でる感触に心が躍ったことはないし、夜に星が瞬くのをみて天高く舞い上がりたいと思ったことも無い。知識は充分に受け継いでいるが、感情は別物だ。私はこの風景に感動した。この風景に満足している。
 二人が不満げな顔をしていることが、不思議でしょうがない。私は言葉の選択を間違えただろうか。
「ここは、あんたの……。そういえば名前は?」
「ない。誰も私をよばないし、私は誰にも名乗らなかったから名前は無い」
 少年の眉間に深いしわが刻まれる。
「ふーん。んで、ここってあんたの巣なの」
 住居ではある。私はここからずっと動かないし、生まれてからのあらゆるときをここで過ごしてきた。しかしこの場所の本質はそんなものではない。勿論、完成された芸術を展示するために作られた場でもない。
「ここは、墓だ」
「墓?」
 二人の声が重なった。
「ここは、私たちの一族が死ぬ場所だ。君たちも腰掛けているだろう」
 二人は驚愕して立ち上がった。小山にみえる黒ずんだ固まりは風によって細かい部分を削られた同族の死体だ。私たちの一族は、死ぬと体が石になる。記憶は死に立ち会った同族が受け継ぐことができる。だから私はこの場所で死んだ全ての一族の記憶を受け継ぐことができた。
 この広い広いドーム上の空間にある黒ずんだ石は全て死んだ同族だ。赤い壁が反射した光がそれを照らしている。削れた砂は混じり合って、床は微妙な色合いになっている。私はそれが好きだというだけのこと。
「ご、ごめんなさい!」
「謝ることは無い。今はただの石なのだから」
 二人は墓石と化した骸から飛び降りた。
「って事は、ここにあるでっかい石はみんな……」
 続きを言いかけて、少年は口をつぐんだ。顔がみるみる青くなった。
 生き物の死体は腐敗する。その姿に恐怖や嫌悪を覚えるのは当然で、だから人は死を恐れて忌避する傾向にある。
 それに人は先祖の記憶を受け継ぐ事ができない種だから、余計に未知の感覚として恐れるのだろう。
「死んだ仲間から知識を受け取って魂を天に羽ばたかせる。骸は石となり、大地を作る礎となる。それが私たちの一族だ」
「って事は、幽霊とかはいねぇんだな!」
「幽霊?」
 それがどういうものかは知っていたが、どういう経緯でこの場所に幽霊がでることになるのかはわからなかった。少なくとも私はこの場所で幽霊というものをみたことがないし、幽霊というのは大抵人間がなると理解してる。
 少女は少年ほどこの問題に頓着していないようで、その大きな石の固まりを見上げた。
「あなたはまだ子供なの?」
 私が首をもたげても、周囲にある骸から頭が出るくらいしかない。体躯は半分ほどだろうか。
「いいや、私は何も食べないから成長しなかっただけだ。残りの命は半分くらいでもう成長はしない」
「それって、つまり・・・」
 少女は口をつぐんだ。透明な存在がその顔を覗き込んで何事か、呟いている。大抵は意味のない戯れの言葉の様であった。
 少年も何か思う所があったようで、二人は顔を見合わせた。感情の色がまたいくつも複雑に絡んでひらめいた。穏やかで変わらないことが常のこの場所で、ひとときごとに色を変えるガラス玉のような存在は物珍しかった。
 興味深く見つめていると、少年は私をまっすぐに見上げた。鋭い目はアメジストの色をしていた。
「絶対、おかしい」
 それはガラス玉のような存在から発せられたとは思えない、予想外に強い言葉だった。幼く小さく弱い命が、これほどに強い言葉を発することができるのか。
「人からすると、おかしいのかい?」
「おかしいね。だってそれじゃ、あんたは生まれてから死ぬまでずっと墓場で暮らして外の世界はみないで、一人で暮らすってことだろ」
「知っている世界をあえて確認しに行かないだけさ。私は綺麗な所が好きなんだよ」
「だから、それっておかしいだろ!」
 少年は金髪をがしがしとかいた。それは知っていたけれど、みたことも無い色彩のものだった。
「知っているからみなくていいなんて、絶対思わない。色んなものみてきたけど、もういいなんて時たぶん来ねぇ。俺はもっと強くなって世界をみてみたい」
 まるで、一陣の風が吹き抜けるような。
 その声の一つ一つが洞窟の中の様に穏やかだった心に、風を流していった。
 空を見上げる。
 その風はきっと嵐の前触れで、雨雲を引き連れてくる黒い雲だ。
 嵐の夜に飛んだことはあるか?
 否。
 ある先祖はそれを恐ろしいといった。
 雷が翼を切り裂き焦がすかもしれない。暴風は薄い皮膜をもぎ取っていく。積乱雲の渦の中は氷の粒が舞踊っている。
 気を抜けば如何に力強いドラゴンの一族であれ、簡単に命を落とす。いわば駆け抜ける魔境である、と。
 しかし、猛る風を切り裂いて飛ぶのは何よりも楽しい、とも。
 ああ、悪くない感覚だなぁ。
 突然羽ばたいたドラゴンの起こす突風で、人の子二人は飛ばされて、必死に石に捕まった。
「ちょ、おま! なにすんだよ」
 長い首を地面に付ける。
「乗るといい」
「は?」
 風が収まって、全身にかぶった砂を払いながら少年は立ち上がった。
「空を飛べない君たちには、使えない道がある。案内してあげよう」
 二人の人の子は、顔を輝かせて背中によじ上った。固く飛び出た背中の突起に捕まる。それは初めての経験だったのですこしくすぐったい感じがしたし、人の子は予想外に重かった。
 立ち上がる。体を動かすのは本当に久しぶりのことだった。出口に向けて、私は全身の力を込めて走り出す。
 風の勢いに、二人は体を低くした。同族の二分の一ほどの大きさの私には、通路は広すぎるほどで羽ばたく余裕すらあった。
「君たちの、名前は?」
 外から差し込む光が途切れて、赤い洞窟は真っ暗になる。それでも進むべき方向ははっきりとわかっていた。
「私、アクル。こっちの目つき悪いのがシャイラ……きゃあ!」
 叩き付けるように押し寄せた風の強さに、人の子の言葉はそこで途切れた。一瞬上も下も右も左をわからなくなる。うなるような風に揉まれながら首を巡らせる。赤い石でできた壁が迫るのが見えた。体勢を立て直し、背から転げ落ちた二人の人の子を受け止める。
 絶壁にドラゴンの墓に至る大穴が空いている。絶壁にそって飛んでいくと、滝が見えた。そちらへ進路をとる。乾いた地面の上でほどなく消えてしまうような、小さな川しか作れない滝だが、それはいずれ大河の礎になる。
「君たちは、どこへいくんだい」
『どこへでも!』
 すっかり私を乗り物としている二人の声が元気に重なった。
 小さな川がいずれ大河になる。
 砂漠の先の見知らぬ風景を、私は知っている。
 さあ、何が見たいか言ってご覧、幼き人の子供たちよ。翼なき者には越えられぬ千里も道も、駆け抜けてあげるから。

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