雨にぬれたコンクリートは、すこぶるくさい。
だいたい下水が臭い。
この調子だと土砂降りはしばらく続きそうだ。
俺は途方に暮れていた。このままだと電車が止まる。携帯を見る。やっぱりかなり遅れているらしい。今年は特に雨が多い。冷夏だ。
一人暮らしの俺としては、お野菜のお値段が気になっちゃったりするわけだ。
料理がへたな女子よりは料理上手な俺は、都会でなんとかうまく暮らしている。マンションの上階で暮らしているから浸水の被害にはあったことはない。
『電車とまるかも かえっていいか?』
送信。
幸い返事はすぐに来た。冷夏と言っても夏は夏。込み合った電車にうんざりしていたそうだ。俺も帰りたかった、と返事が返ってきた。
さて、俺はどうすっかなー。
遊びにいく予定だった。カラオケでもなんでも、ついてから決めれば何とかなる。遊ぶ場所なんて溢れかえってるんだ。
ただ早く帰らないと、電車が止まる。最近の異常気象はそれくらいの威力のある雨を降らせる。この雨の中それは嫌だ。
駅の中に居ればぬれないし、地下には店もある。それはしっているけど、そういう問題じゃない。今日は雨だって言う事実が、気分を重くするんだ。
通行人も小走りだ。傘なんて持ってたってぬれる。特にこんな土砂降りじゃ、頭しか守れないだろう。
傘なんて始めからささないで、走っているやつもいる。
特に何も考えていなかったが、目があった。
何か含むものがある目付きだ、と思っていたら、いきなり目の前から消えた。
濡れたタイルに足をとられて転んだらしい。
それはもう見事な転びっぷりだった。ケツから落ちた。いや、背中からだったかもしれないが、高々とあがった足の裏が見えた。
こういうとき無視するのが都会の人間のクールな所だが、さすがに忍び笑いが聞こえた。とりあえず俺は周囲に倣って目をそらした。
同じくらいの年のやつだった。相当痛かったらしく、しばらく起き上がれなかった。転ぶ瞬間を見ていなかった人間は、嫌な物をみるような顔をして通り過ぎていく。
立ち上がったときに、また俺と目があった。いや、見ていたわけじゃない。こういうときはさっさと逃げれば、余計なトラブルに巻き込まれないですむ。
「おい」
聞えません。
「ちょっと」
聞えません。
「お前」
何ニモキコエマセン。
「待てってば!」
やめろ肩に手を置くな、濡れる。土砂降りの中を走ってきたようだったし、水たまりのできた地面で転んだら、びしょびしょだ。
さりげなく、手を払う。
「なんですか?」
「や、お前見えたろ。俺が転んでずっこけたの」
だからって俺だけ絡まれるのか。そんなに隙が多いつもりはない。人に道を聞かれた事だって一度も無いから、きっと声がかけやすい訳ではない。
こんな虫の居所が悪そうな人に絡まれたら、たまらない。そもそも俺は今までそんなピンチに遭遇したことはないから、うまい切り抜け方を知らない。
「ああ、大丈夫でしたか?」
そんなに敵意むき出しの態度でない事が、唯一の救いだ。虫の居所が悪いから誰かに絡みたいだけなのかもしれない。
「うん、大丈夫。大丈夫なんだけどさ、ちょっと聞きたい事あるんだけど」
「はあ。でも、俺急いでるんで」
顔に似合わない話し方をする人だ、と思った。
雨の音が大きいので人話し声も聞き取りにくい。
「見物料ってことで、頼む。迷っちまっただけだから」
押しが弱いタイプかと思ったが、以外に強く迫ってくるので俺は戸惑った。折角ここまで出てきたんだから、そのへんでうまいものを食べてかえろうと思っていた。
雨脚が強まった。落ちてくだける雨粒が飛沫になって足下を濡らしたので、思わず後ずさった。
引かれたと思ったらしい、相手も一歩ひいた。雨に当たる方にはみ出した。
忙しいといったものの、バイトもないし予定もつぶれた。何か食べて家に帰ってゲームでもするつもりだった。たまには、人助けでもしてみるか。
「なんか、こう、ぐっとくる所に連れてって欲しいんだ!」
この人、なんかやべぇ。
「あ、やっぱり忙しいんで」
「いやいやいや、頼む。ほんとに困ってんの、俺。昔懐かしの所に行こうと思ったら、この辺変わってて全然道わかんないし帰り道もわからない。で、この雨だ。このままだと溶けて死ぬから」
それはそれで、見てみたい。
せっかくだから、スーパーで肉でも買って帰るつもりだったんだ。雨の日割引で豚肉が安くなってる。
まあ、なんせ俺一人暮らしなんで。
雨で気が滅入るこんな日だから。
道案内でもして、気分転換でも。
「ぐっとくる所って具体的にどこですか」
「んー、森、とか山だな」
「・・・・・・」
なんてこった。
タクシーでも呼んだらどうかと言ったが、電車を所望された。
三十分ほど遅れているらしい。動くなら何分遅れようと俺は気にしない。三十分遅れれば、三十分前の電車が到着するだけのことだ。
扉が開いて、人を押し分けて降車する人の群れが出てくる。
「電車はいいな」
俺は全然そうは思わない。特に雨の日の電車は苦手だ。
入った瞬間に、熱気と湿気が押し寄せる。湿った服の臭い。少し汗ばんだ人間の臭い。目の前の女性の髪の毛の臭い。濡れた傘が足に当たっている。
それ以上に全身びしょぬれのやつが電車に乗り込んできたので、周囲は迷惑そうだった。俺は濡れたくないので少し離れた。あわよくばそのままはぐれれば良いと思ったが、そうはならない。
ほとんどの路線の遅延の情報を横目で押さえながら、広告を見る。
しばらくすし詰め状態だったが、終点に近づくに連れて人が減って座れるようになった。
「山って、どこに行くつもりなんですか」
一応の敬語を保つ。
『変なのに捕まった まじやべぇ』
携帯で友人に助けを求める。
これで一体いくらくれるつもりだろう。
俺としては現物支給でもかまわない。野菜とかな。肉とかな。夕飯と昼飯おごってくれるとかな。山に向かうからには、家に畑、ありだろう。
手の中の携帯が震えた。返信が早い。
『ざまぁ』
くそ、フザケンナ。
「どこでもいいんだけどな。あ、高尾山はやめといて」
現在進行形でむかってるぞ。
「すみません。高尾山が駄目といわれると、道わかんないで」
帰って良いですか。
山とか森とか、勝手に行ってくれ。ただでさえ雨で憂鬱なのに。正直こんな所まで連れてこられるとは思わなかった。せいぜいどの線に乗れば良いのかの説明とか、或いはタクシー捕まえて後は運転手さんがなんとかしてくれると思っていた。
今時珍しい、この図々しさ。
ここまで来たら、電車代いくらだ。こいつに請求してから帰ろうかな。
「人に聞けばいいさー」
心底楽しそうだった。
この馬鹿にしか見えないやつに、ようやく疑いを持った。
俺、はめられたんじゃないか。
そもそも今ので、俺が帰りたいって言ってるのがわからないわけない。
ちょうど乗り換えで電車をおりなきゃ行けないし、ちょうどいい。この辺りで適当な事を言って逃げるべきだ。
「すみません、俺友達に呼び出されたんで帰ります」
ちょうど電車が駅に到着した。
「え?」
慌てて立ち上がる。髪の毛は多少乾いてきていた。
「ちょっと待てよ。今更だろ。俺、困るんだけど」
「俺も、困ります」
だいたいあんた、非常識なんだよ。馴れ馴れしすぎて鬱陶しい事この上ない。
そんな格好で座るから、座席が湿ってる。色が変わっている。
周りの人の視線が痛い。知り合いと思われるのはごめんだ。
改札を出ないで帰れば、金はかからない。
「じゃあ、高尾山まででいい」
「勝手にいってください」
俺は帰る。
嫌悪感はもはや隠さない。狙ってやっているにしろ、ただの天然だったにしろ、はっきりさせないと惰性で山まで連れていかれる。
「っんだよ! ガキん時一緒に遊んでやったろうが、薄情者!」
背中にいきなり怒声がぶつかった。
「なん……」
振り向こうとした俺を、腕をつかんで引っ張ってゆく。改札手前で手を離してくれた。そのままさっさと改札を抜けて歩き去るので、俺は慌てて追いかけた。
高校のときの友達じゃないさすがに顔は覚えてる。
中学、小学校、下手したら保育園。
あんな男は、記憶に無い。
仲が良かったとしたら、結構酷い態度をとった。何しろ完全に他人として接したし、嫌悪感も隠していなかった。
雨はどしゃぶりから普通の雨に戻っていた。都心を離れたからかもしれないし、時間経過があるからかもしれない。
俺は傘を持っているからそれを差した。
ああ、確かに俺の地元には山がある。東京の生活がすっかり板についたから帰りもしないが、地方出身だ。
そりゃ、知り合いなら馴れ馴れしくもなるよな。
少し歩いた所に誰かが立っていた。傘を差してもいない。
そういや、名前も聞いていない。
二人で何かを話していた。俺が追いつくのと、あいつが何かを言われて俺の方を見るのは同時だった。
怒っているような顔はしていなかったが、許しているような顔もしていなかった。
一応と傘を差し向けてみるが、二人には完全に無視された。
「こいつも、連れていく」
そういって、立っていたもう一人を指差した。
「多摩」
「はぁ」
俺は頭を下げた。
くるり、ときびすを返して二人は歩き始めたので、俺は慌てて後を追った。近くには車があり、多摩という人物がドアを開けて示してくれた。
そう出なければこの雰囲気で、俺が車に乗り込める訳が無い。
「どうだった、東京観光は」
その物言いは、自信に満ちていて少し偉そうだった。
「ろくな事は無かった。友達は一人も居なかったし、馴染みの場所も無くなっていた。こいつは……」
そういって、ちらりとこちらをみた。
「うぬぼれていた。俺の事もすっかり忘れて偉そうだった」
一言も返せない。
うぬぼれていたとか、偉そうにしていたとか、いろいろと言ってやりたい事はあるが、名前すら思い出せない友人にそんな口はきけない。
「まるで天狗か」
どこに笑う要素があったのかわからないが、二人は笑った。多摩の笑いは、全て自分の思った通りだったといいたげだった。
信号で停車する。雨に濡れた車窓から見える景色は少し歪んでいる。
迷ったっていうのは口実か。
迎えまで用意してあって、帰り道がわからなかったなんてことがあるわけがない。
しかし、全く思い出せない。
「この辺だ」
車が止まった。
「……は?」
どうやら俺は途中で寝ていたらしい。
どこの山中だ。
高尾山で無い事は確かだろう。車を降りる。
ガードレールが薄汚れてグレーになっている。雨だれの後が汚く残っていた。
小雨に変わっていた。
木々から滴り落ちた水滴が時折頭をたたく。
「一から十まで忘れてるくせに、偉そうだよな」
俺はうっかり傘を車の中に置いてきていた。責められるのを、じっと堪えて聞く。
「わからないなら、わからないなりに努力してみろ」
多摩の物言いはやはり、少し偉そうだった。
「同郷のよしみだから、ま、いいけどなぁ」
何が面白いのか、二人はそこで笑った。
「こういうのをもったいないというんだぞ」
偉そうにもったいぶって、多摩がいう。俺は同郷じゃないとも付け加えた。
二人が手を振った。始めは別れを告げられているのかと思った。
こんな山奥で置き去り、絶対絶命のピンチかと思った。
よくよくみれば手の動きが違う。凪いでいるのか、いや扇いでいる。
どこから取り出したのか、羽団扇を手に持っている。
どこから、いや、それより、あれは。
「……っ!?」
あれは、天狗だ。
天狗が二匹、風を起こして雨を巻き上げている。
風に巻き込まれる度に、雨粒の一つ一つが石英のように光る。
突然、頭の上に落ちてきた雫の一つがはじけた。
「うわ!」
頭を抱える。
頭の中に電車の中の景色がひらめいて、すぐに意識の上を滑り落ちていった。
今度は腕に落ちる。
あたりを覆う針葉樹の枝から水がくだけるたびに、花火のように小さい光が水滴と一緒に舞う。
花火のように美しい雨が降り注いでいた。
『多摩、迎えに来てくれ』
くだけた水滴の一つがしゃべった。電車の中だ。
『どうした、道案内を頼んだんじゃないのか?』
少し偉そうな物言いの、多摩の声がする。
パシ、と肩の上で水滴がはじける。
『遅くなる前に帰ってくるんだぞ』
これは、年の離れた兄の声だ。
パシ、パシ、と花火のようにはじけて、俺に見ていなかった物を押し付けてきた。
「天狗雨」
「過去が詰まっているだろう」
二人の天狗が言葉をつないだ。
電車の中で、二人の天狗が俺にはわからない方法で話している。
多摩に話かける音の無い声も、景色を眺める顔をちっとも楽しそうでない。
俺は、携帯の画面を見ているので気づかない。
『だいぶ粘ったんだが。これで帰ったら故郷の山もなくなってるかもな』
『高尾は俺の山だ、来るなよ』
『山って、どこに行くつもりなんですか』
二人の会話に、俺の声が割り込んだ。
いや、これは少し違う過去だ。
窓の外は曇天で、こんなに綺麗に見えなかった。
雨が降ってて、湿ってて蒸し暑くて憂鬱だった。
雨が降っているのに、こんなに鮮やかな訳が無い。電車の中からいくら外を見たって、特に面白いものも見えない。
「お前らは、鈍いんだから鈍いなりに全開にしとけよ」
天狗の雨が、相も変わらず美しい。
息を吸ったときに飛び込んできた鮮やかな香りに、俺は思わず息が詰まった。
落ち葉が朽ちた地面、針葉樹の若い葉や枝、夏を謳歌する下草が、雨に濡れて薫っている。
人の気配に驚いて飛び立つ小鳥の羽音。布ずれのように葉がなる。身を冷やす雨を言祝ぐ、何千もの植物の声が、耳にいっぱいになる。
絶え間なく落ちてくる天狗雨の光に惑わされて、目眩がする。
強い風が吹いた。水滴が土砂降りのように降り注いだ。はじける水滴は重く肌が痛いほどだ。小さい爆竹がはじけるようだ。
光が溢れて立っていられなくなった。
転ぶ。
体が傾いた俺の腕を、誰かがしっかりとつかんで支えた。
「人間は全開にすると、生きていけないからな。まぁ、おいおいだ」
多摩だった。
「あいつは?」
姿がどこにも見えない。
多摩は、また偉そうに笑った。
人は、人の場所に帰れ。多摩の笑顔がそう語っていた。
帰りの電車、相変わらず降り注ぐ雨。
電車の中はむっとするような湿気と熱気。夕方だったので都心に向かう電車はすいていた。
傍らには封を切る前から、いいにおいが漂ってくる弁当。
天狗が、役立たずだった人間にくれた土産だ。
もし俺がもっと目の前の物をちゃんと見ていたら、どんな顔をしてこれを渡してくれていただろう。
名前すら、知らなかった。
「あいつ、なんて名前だったのかな」
みんな迷惑そうに雨をみる車窓。
俺にはずっと、光のはじける天狗雨がみえていた。
「遅くなる前に帰ってくるんだぞ」
年の離れた兄が、俺を捕まえた。兄は祭りで獅子舞をやる。
俺は最近兄の足をじっとみて、形を覚えるようにしている。
獅子舞をやっていたら、足しか見えないからだ。どこに兄がいるのか、すぐにわかるように、足の形を覚えなければ。
俺は、子供だけでやるお囃子の太鼓を担当することになった。
兄も俺も練習にいく。俺が、いつも練習が終わっても帰ってこないから、毎回練習に行く前に釘を刺される。
練習は今日が最後だ。早く終わる。明日は本番だ。
神社の近くの公民館でやる。途中の神社は、すっかり祭りの飾り付けができている。赤い提灯がある。
空は、曇っていて夕日が沈む山の方の雲が僅かに赤くなっている。
兄は途中まで俺を送ってくれる。それがいつもの事だ。
でも練習が終わっても迎えにきてはくれない。そのかわり、帰りが遅くなっても両親ほどは怒らない。ただ、遅れないように釘を刺す。
その日練習が終わったときは雨が降っていた。
俺はいつも通り神社に走った。大人に見つからないようにこっそり裏に回る。
軒下に隠れる。雨は冷たかった。
両手をあわせて、お祈りをする。
去年の夏から、毎日ここに通っている。肝試しがきっかけだ。
ここにいると、時々どこにも人がいないのに声が聞えてくるらしい。昔死んでしまった子供の幽霊がさまよっている、とかなんとか。
みんなは、声を聞いたらしい。俺は聞えなかった。聞えなかったけど聞えたふりをしていた。
それからその話になると、俺はばれるんじゃないかとびくびくしながら適当に話を合わせる。本当に聞いてやると思っても、肝試しをやったような時間に出かけるのは怖いから、夕方にこっそりとくる。
風が物凄く冷たく感じた。
雨だれが跳ねて、靴を濡らしていく。
「そろそろ帰った方がいいんじゃないか」
「うん」
答えてから、周りに誰もいない事に気がついた。
もしかして、聞えた?
俺は寒さを忘れた。
耳を澄ませると、社務所で酒盛りする大人の人たちの声が聞えてくる。祭りの前から大人たちはお酒を飲んで騒いでいる。あのごちそうの余ったのを持ってきてもらうけど、冷めていておいしくない。
「誰か、いるの」
小声で聞く。
返事は無い。雨の向こうに目を凝らしても、檜の幹がのっそりと立っているだけだ。
昼も薄暗い神社の裏では、夜の闇がぽっかりと口を開けている。
興奮が、不安に変わった。
誰もいない。なら、さっき声をかけたのは、誰?
冷たい手が肩をつかむ。
俺は飛び上がった。
「何やってんだ、こんなところで。早く帰れっていっただろ」
兄だった。
怒っているように見えた。腕を引かれて連れ帰られた、それをよく覚えている。
その後、寝るまでの記憶は今でも曖昧だ。いつも怒らない兄が、物凄く怒ったのだけは覚えている。
その剣幕に押されて、両親はあまり俺を怒らなかった。
あれは兄だったんだろうか。そういえば、言い方が兄に似ていた気がする。
寒気がいつまで経っても消えないので、布団に潜り込んで眠った。
次の日、頭が痛かった。朝から祭りの準備に行かなきゃいけないのに、体が重くて立ち上がれなかった。無理に立ち上がったらくらくらして転んだ。
風邪を引いた、と聞かされた。兄は獅子舞があるから出て行った。
俺は残された。
遠くから祭り囃子が聞えてきた。俺の分は代役が立ったらしい。子供はいっぱい居るし、一人くらい抜けたり、全然できないやつが居てもみんな気づかない。
りんご飴よりも綿飴が好きだった。
兄の獅子舞を見たかった。折角兄の足を覚えたのに。
遠くから聞えてくる祭り囃子を聞いているうちに、俺はまた寝た。
目を覚ましたとき、カーテンの向こうは暗かった。
寝間着を着替えて外に出た。家の中には誰もいなかくてひっそりとしていた。頭はぐらぐらしたけど、たてる。
これなら、お祭りに行ける。お小遣いのはいった財布をもって、外にでた。
曇っているらしい。遠くで雷の音が聞えた。雷かもしれないし、でっかい太鼓か花火の音だったかもしれない。
星も月もみえなくて、道は真っ暗だった。
祭り囃子はまだ聞える。
あっちだ。あっちの方。
綿飴。兄にはりんご飴。
まだ赤い提灯が見える。屋台を照らす電気も見える。たこ焼きの臭い。焼きそばの臭い。綿飴の甘い匂い。
まだ、お祭りはやっていた。屋台、金魚は掬っても飼えないから駄目。それにこれから歩き回るのに、金魚を連れて歩くのは邪魔だ。
「綿飴、欲しかったんだろ」
屋台のおじさんが綿飴を差し出してくれた。
「いくらですか」
まだ頭がふらふらしている。百円と五十円見分けつくかな。
「いいよ、いいよ。おまけだおまけ」
すごく良い人。
俺が風邪だったことを、みんな知っていてくれたんだろうか。すごく親切だ。
神社に行きたくなった。焼きそばを食べながら、神社への道をあるく。
今までは鼻いっぱいの焼きそばの匂いしかわからなかったのに、少しずつ他の自然の臭いがわかるようになってきた。
神社の大きな檜の下はいつも涼しくて、裏に行くと苔の映えた地面がある。
「ここで、何やってんだ」
言い方が少し兄に似ていると思った。
そこに居たのは、兄では無かったし、獅子舞の格好をして居なかった。
(こういうの、なんていうんだっけ)
いろいろついていて、格好いいと俺は思った。顔にはお面を着けているから、踊りを踊る人かもしれない。
半分くらいの天狗のお面で、真っ赤な顔から鼻がにゅっとのびている。
口元だけ、元の顔が見えていた。立派な、羽でできた団扇をもっていて、特に背中の鳶みたいな翼の衣裳なんて、どうやってくっつけているのか検討もつかない。
「迷子か」
少し声の調子を和らげて、その天狗さんは俺に聞いてきた。
「違うよ、俺ちゃんと祭りにきたんだ」
迷子なんかじゃない。ここは神社で俺は帰り道がちゃんとわかっている。
天狗さんはすこし笑って、そうか、と言った。
風が吹いて、檜の枝を揺らした。
夜の檜は怖い。夜の森も怖い。何か隠れていそうなのがこわいし、それでいて何も居ないから不安になる。
しかも、檜は葉っぱの落ちる木みたいに賑やかじゃない。囁くみたいにひそひそと揺れる。
その声を聞こうとするみたいに、天狗さんは顔を上げてじっとしていた。
「いくか」
天狗さんは手を差し出した。
「いいよ、知らない人だし、忙しいだろ」
祭りなんだから、この天狗の格好をした人は忙しいに決まっている。
「知らない人じゃない、俺は宇倭っていうんだ。じゃ、一緒に行っても良いか? 他の奴は一緒に遊んでくれないんだ」
「うわ?」
名字かな、名前かな。
どちらかわからなかった。
友達がいないなら、しょうがないから一緒に回ってやっても良いかな、と思った。
大事な役目は大事な人がやる物だ。だから、俺は太鼓をやれるのを楽しみにしていた。
このウワさんもやっぱり大事な事をしている大事な人らしくて、みんな畏まっていた。
一緒にあるいている俺が偉くなったような気がして、うれしかった。
綿飴は食べたか。
焼きそばは食べたか。
たこ焼きは食べたか。
りんご飴は食べたか。
かき氷は食べたか。
りんご飴の側に杏飴もあっただろう。
ウワさんは屋台で売っている食べ物の名前を一つずつあげていった。
ラムネは飲んだか、と聞かれたから俺は飲んでないといった。
こんなぐらぐらした頭では、ラムネをうまくあけられないと思ったからだ。
「飲みたいか?」
「うん」
そのとき、ぽつぽつと雨が降り出した。ずっと空を覆っていた雲は機嫌を損ねたらしい。
ウワさんは、もっていた羽団扇を振った。
雨粒が祭りに来ていたみんなの上に降り注いだ。俺の上にも降り注いだ。
それなのにちっとも濡れない。
雨がぶつかると光の粒になって消えていった。少し痛いけど、花火みたいで綺麗だ。
みんなが歓声をあげた。俺もうれしくなって歓声をあげた。
顔に雨が当たって痛くないように、狐のお面を額の所に斜めに被せてもらって、俺は上機嫌だった。お面はプラスチックの安物じゃなくて、ちゃんと本物のお面だった。
檜の木が、風でゆれる。たくさんの木のざわめきが一緒になって大きく膨らみ、ここまで流れてきた。
声のように、歌のようにさざめいている。
天狗、天狗、宇倭天狗。
其の子供は此の場に居てはならぬ者だ。
其の子供は我等とは異なる者だ。
後の祭りに迷い込んだ子供だ。
此方に迷い込んだ生者だ。
疾く還せ、疾く還せ。
宇倭天狗、道を過つ前に其の子供を手放せ。
俺にはその木々の言葉の意味が全くわからなかった。
ウワさんが、ひゅ、と息を飲んだその音を今でも覚えている。
強く腕を引っ張り上げられて、俺は痛くて悲鳴を上げた。
「お前、こっちのやつじゃないのか。てっきり冥途への道を失った子供だと」
今までにこにこと微笑んでいた口元が固く引き結ばれている。声は聞いた中では一番鋭かった。
ウワさんは急に怖い人になった。今まで歓声を上げて綺麗な雨を喜んでいた人も黙り込んで、二人をじっと見つめていた。
あちらもこちらもない。俺はずっとここに居て、どちらにも行った覚えは無い。
お祭りを楽しんでいただけだ。
「痛いよ、放せよ」
放してくれなかった。腕をつかむ手が万力のように締め付けている。
誰にも言わないでこっそり布団を抜け出してきたから、怒っているんだろうか。みんなにごちそうしてもらったから、お金を返せって行ってるんだろうか。
「痛い痛い!」
俺はとうとう悲鳴を上げた。そうしなければ、腕がちぎれてしまいそうだった。
ウワさんは、やっと力を緩めた。
「家に帰れ」
本当はラムネが飲みたかったけど、あまりに怒って言うので俺は頷いた。
すると今度は祭りにきていた人たちが、ざわざわと騒ぎ始めた。
天狗、天狗、宇倭天狗。
其の子供を置いていってくれ。
其の子供を我等に与えてくれ。
此の世界に滑り込んだ希有な者だ。
此方の物を食べてしまったのだ、もう帰れまい。
宇倭天狗、我等の物を盗るならば如何に御主でも只では置くまい。
道を過つ前に、其の子供を我等に寄越せ。
みんなが俺に手を伸ばしてきた。
少し前までウワさんからどうやって逃げようかと考えていたのに、今度はみんなが恐ろしくてウワさんに飛びついた。
ウワさんは俺を抱えると、神社に向かってまっすぐに走った。
後ろからは綺麗な雨のなか、なんだか良くわからない物が追いかけてきていた。
「俺の力で還してやる。こちらで食べたものの事もなんとかしてやる。心配するな」
食べた物の事は、なんとかしてくれるという事だけわかった。帰ったら親にさんざん怒られて謝りにいかせられるけど、その相手は怒った屋台の人たちよりもウワさんのほうがいい。
しがみついた衣裳は、何日も洗濯をしていない感じがして、獣くさかった。後ろから来る物が目に入らないようにじっと目をつぶって、いろんな音を聞いていた。
みんな物凄く怒っているみたいで、難しい言葉で口々にウワさんを罵っていた。近くで鳥が羽ばたく音が聞えている。空気をたたく音が耳に痛い。
古い衣裳に顔を埋めていると、暖かくて怖さが和らいだ。
檜のざわめきが聞えたあと、ぱったりと音が止んだ。
顔を上げると神社の裏に居た。
「ラムネは?」
そう聞くと、ウワさんは苦笑して俺を降ろした。体が離れると夜の寒さが身にしみた。
「諦めろ。そのかわり、今度うまい物をごちそうしてやる」
ウワさんは俺の頭を撫でて、狐の面を取った。
本当は返したくなかったけど、あれはきっと何かの衣裳の一部だから、俺がもらっちゃいけない物だ。
相変わらず綺麗な雨がそこかしこで、光を振りまいていた。
ウワさんは俺の手をひいて歩き出した。
振り向いても、お祭りの赤提灯はもう見えない。いつもは社務所の電気がついていて大人が宴会をしているのに、それも見えない。
俺がいつまでも後ろを見てると、ウワさんは歩を早めて俺の手を引っ張った。
街頭が不安定に瞬く。二人しか居ない道を歩いていると、余計に寒かった。祭りの夜だというのに、驚くくらい静かだった。
頭が痛いのとぐらぐらするのが、また戻ってきた。
家が見えた。
「いいか、何も言わずにまっすぐ布団に戻るんだぞ。こっそり帰らないと、怒られるからな」
家は真っ暗で玄関に明かりもついていない。いつも寝るとき前付けておくのに。特に祭りの夜は、父が遅く帰ってくるからそれまではついているはずなのに。
「さあ、はやく帰れ」
「あれ、ウワさん。もしかして、昨日神社の裏で俺に声かけた?」
振り向いたら、誰もいなかった。
もう少し待ってくれても良いのに。いつの間に帰ってしまったんだろう。
こんな夜中に一人で置いていくなんて、酷いとも思った。
それからこっそりと家に帰って、布団に潜り込んだ。
家を出たときと同じように誰もいなかった。
でも、兄の部屋をこっそりと覗いてみたとき、誰もいなかったんじゃなくてみんな寝ていたんだという事がわかった。
布団に潜り込んで、次に目が覚めたとき俺の風邪はすっかり治っていた。
俺が祭りに行った事を覚えてくれている人は、誰もいなかった。
天狗の格好をしたウワさんの事も、誰も覚えていないという。
あんなにすごい格好をしていたいのに。
俺をからかったりしない兄も、知らないと言った。
熱で浮かされて夢でも見たんじゃないか、とまで言われた。あの綺麗な雨を思い出すと、そんな気もしてきたし、いつまでもそんな事にかまっているほど子供の俺は暇じゃなかった。
「今日は絶対早く帰って来いよ」
遊びに出ようとする俺を、兄が捕まえた。
いつになく真面目な顔をしていたので、俺は頷いた。なによりまた風邪を引くのはごめんだった。
いつも通り神社の裏に行く。
今日は一点のかげりもない青空だった。
「ウワさん。ごちそうは?」
こっそりと呟いた。
『それまで俺の事を覚えてたらな、まぁ、追々だ』
ざわざわと檜が騒ぐ。ウワさんの笑い声が風に混じって聞えた。
ひらめくように思い出して、俺は思わず目をさました。
「宇倭、そうか宇倭天狗か」
天狗雨には過去が詰まっている。ガキだった俺には、見る過去が無かった。
今、溢れるほどの過去はすっかり俺の記憶を呼び覚ましていた。
もっと早くに過去を見えてくれなかったのは、俺への罰かもしれない。
俺の傍らには、名前すら覚えていなかった天狗がくれたごちそうがある。
駅を出ると、十年ぶりの天狗雨が俺をたたいた。