橋姫

一、(1047語)

 橋の元で待ち合わせをした。
 あの忌々しい男と。
 男が相手では、待つほうも待たれるほうも甲斐がない。
 遅れていってやる。そう思った。
 いつも待たされるのは俺だったのだ。
 何年ぶりになるだろう。世間を知らない子供のころ、頻繁にあの気に入らない男と顔を合わせた。そうして、まだ青臭さの抜けない頃、あの男と会わなくなった。
 いつも待ち合わせはあの橋だった。少し古風なつくりの、橋。見栄えはよくて、川も中々のもので水は澄んでいた。
 その袂にたって、俺はじっと待っているのだ。
 何人もの通行人が通り、何人かは用事を終えて帰っていく。その間俺は橋の番人のように、まんじりともせずに待っている。
 待てども待てども、あの男は来ない。
 散々待たせておいて、風に吹かれてきた埃のようにのこのこと現れる。そういう男だ。結局日が暮れるまで現れないことも度々であった。
 それでいてまるで嫌味がない。仙人のように妙に老成して悟りきった声で、すまないねという。
 しかし、あの大人びた声を聞かなくなってから、俺は急に大人になったのだ。それは或いは、失恋の痛みをしったからかもしれない。
 そう、もう一人いた。だから俺は、一等気に入らなかったのだ。
 黒髪が美しい色白の、小柄な女性がいつも俺の二歩はなれた所に立っていたのだ。
 初めて出会ったのは、俺だった。橋の上だった。
 俺があんまり長い間、毎日のようにあそこに立っているから彼女が声をかけたのだ。
 彼女に会うのは、いつも橋の上だった。彼女は俺がいるときいつも橋で待っていて、橋で別れた。あの嫌味な男が、暑い日も寒い日も人を野ざらしにしておく間、俺は彼女と話した。
 橋は、俺と彼女の逢瀬の場所だった。
 そうして、彼女はあの男に惚れた。
 あの大人びた厭世的な、じじくさい仙人のような男に、惚れた。
 たった数度、言葉を交わしただけなのに。
 知的な、色白い、俺よりもずっと上品なあの男に惹かれたのだ。
 俺は彼女に橋で会い、橋で別れる。
 別れの言葉を告げたあと、彼女はあの男の家に行く。愛しい男の世話をしに行ったのだ。
 あの男は、病弱であったから。
 だから、待たされると知っていても、遅れていくわけには行かなかった。橋の上で、風に当たって体を崩すといけないから。
 だから、そう。そうだ。遅れて行ってやると思いながら、俺は待ち合わせの時間に行ってしまうのだ。
 彼女は来るだろうか。
 互いにあの男は遅れてくると知りながら、時間通りにいって待つのだろうか。
 橋の上で待つ長い間を、俺と話で埋めるのだろうか。
 嗚呼、幾年も過ぎた今、俺はまたあの橋に行くのだな。


二、(1292語)

 そういや兄さん一人身かい?
 いやね、向こうの橋のところに娘さんが立ってるんですよ。それが毎日、雨の日も風の日も。
 男を待ってるらしいんだが、ありゃぁどうやら捨てられたな。それが結構な別嬪さんなんですよ。まだ若いみたいだし、あのままってのも気の毒だ。
 でも、声をかけようにも俺じゃぁね。恰好がつかないし、かみさんに怒鳴られちまう。
 どうだい、兄さん。多少年は開くが、悪くねぇと思うよ。

 雨がしとしと降っている。煙雨が、町を霞ませる。白い吐息が雨に溶けて混ざってゆく。
「感心しない」
 傘を傾けて見上げるようにしないと顔の見えない、背の高い人だった。
 初めてお声をかけた時の、あの顔は表現できない。大人の仮面を落としてしまったむき出しの感情に、慌てて何かを被せて足早に立ち去ってしまった。
 その時から今まで、会って居なかった。
「若い娘が、こんな所に毎日のように居るのは、感心しない。危いこともあっただろう」
 この人は、私の名前も知らない。
「俺を待っていたのか」
 間違っていたら恥かしいから、彼は視線をそらした。それほど豊かに思いを表すのに、心を乱さないのが憎いくらいにあの人に似ている。
 それに心が乱れるのが、恐ろしい。私の心は驚くくらい節操がなくて、はしたない。
 堪えた笑みが、唇の隙間から零れ落ちて白い息になってとけた。
「俺に用があるなら、尋ねてくればいい。悪い噂が立っていた」
 私を見ない。目が泳ぎ回って本当に言いたいことを隠している。私の笑みを肯定と受け取って、意図しないところまで深読みしてしまったようだった。
「すみませんでした」
 わざと言葉を捉え違えたふりをして見る。
「俺はいい。謝らないでくれ」
 朴訥とした語り口が、むず痒い。
 初めてあった時の、あの顔が頭から離れない。どんなことをいったら、あんな風に心を乱してくださるのだろう。
 傘を持つ手の、赤くかじかんだ指先。それに頓着しないのは、この方が男の人だから。橋の欄干が濡れているのも気にしないで、そこに手を載せて川を見下ろす。
 長く細く吐き出した溜息は、空気に溶けて天に昇っていった。霧に混ざって溶けて、またこの朱色の傘に降り注ぐ。
「実感が、わかない。こうして待っていれば」
「そうならないように、私がいるのです」
 遮ってしまった。最後まで言わせたら、何が出てくるのだろう。でもきっと何かが出てくるのもそれにふりまわされるのも、私の方に違いない。
 遮られた言葉が、溜息になって吐き出された。あの白い靄を捕まえてしまいたい。それで、瓶に詰めておけたら私は満足。ガラスの中に入っていたら、きっと綺麗。
「十年、近くなるのか」
 それは、確認ではなかったし疑問でもなかった。独り言のようだったので、なんと言葉を返せばいいのか分からなくて、結局何もいわないのがいいと悟った。
 傘の外に出た腕が、雨でしっとりと濡れている。見下ろす川は、寒さで水が恐ろしいくらいに澄んでいる。
「身投げには、浅いな」
 橋が、いけないのですね。
 この橋が、あまりにたくさんの人の心を捉えたから、私も動けなくなってしまった。
「また来てくださります?」
 橋に待ち人、また一人。
 霧雨は町を煙らせて、橋は白く霞んでいる。


三、(1083語)

 案外たくさんの人が訪れているという事、皆様は知らない。一人でいるから心配だといって来るのだけれど、そうして心配しているのが自分だけでないという事を、皆様はしらない。
 私がこの人の娘ならよかった。そうなら、この人がいなくなった後も大丈夫なのに。
「すまないね」
 全ての人にこんな顔をして笑いかけるから、私はどうしていいのか分からない。本当は凄く悲しくて、全然嬉しくなんてないのでしょう。
 十年近く疎遠の友人から連絡のないまま、この人は死んでしまう。
 ここに来るたくさんの人は、あの橋が切っ掛けで知り合った人たちなのでしょうか。顔を合わせようとしなかったので、尋ねたことすらありません。
 どちらにしろ、私は橋であったのです。
 それは熱に浮かされるような、暑い日。雲は黙々と持ち上がり、目に痛いくらい白かった。
 私は、雑事で外にでたところでした。
 用事を終えた帰り際、あんまり暑かったので橋の前に枝を傾ける大きな椿の木の下に宿り休んでいた時のことです。
 汗を拭って橋を見ると、強い日差しに晒されて目に痛いくらい明るい。
 蝉が、うるさく鳴いていました。
 そういうことが全部混ざって、私は夢をみるような朦朧とした意識でいました。
 そんな心地でみたその人は、まるで昼に迷い出た幽霊のように見えました。
 病に冒されているのは咳き込む姿と細い体から、想像できることでした。
 私はそんな人に手を差し伸べるような勇気は持っていなかったし、暑くて疲れていました。でもその方はますます具合が悪くなるようで、仕舞いには通行人が目を向けるほどになっていました。
 私が思わず手を差し伸べていましたが、親切心というよりはそのままその方が死んでしまうのが恐ろしいからでした。その背をさすって差し上げると、少し楽になったようでした。
「すまないね」
 その声は、全く無防備だった私を突き通しました。
 病人の青白い顔で苦しそうな表情をしているこの方が、今の声を出したのが俄かには信じられませんでした。私はこの方を助けたことを激しく後悔しました。
 その時から、私はこの人から離れられなくなったのです。
 こうなることを、感じ取るほどの知恵が私にあったのでしょうか。でも、惹きつけられるということはそれくらい恐ろしく思ってもいるということでもある筈です。
 それならば、この人が何にも惹きつけられないで風のように過ぎ去ってしまうのも当然かもしれません。
 そうやってこの人が何も残さずにいってしまうから、私たちがあとでこの人の痕跡を探して彷徨ってしまうのでしょう。
 私は、あの橋を守ることにします。
 そうしていればきっと、この人の友人にも合うこともできるはずですから。


四、(1048語)

 母が悪いのだ。こんなだらしのない男に惚れたから。
 そのだらしのない男をそのままにした正妻も悪い。せめて、母より先に子供の一人でも産めば、こんなことにはならなかった。そうすれば好奇の視線に晒されることもなかったし、血のつながりをさほど感じない男を、看取ることもなかった。
 不義を働いたのは、私ではない。私は不義の結果であって、不義そのものではない。
 この男は、二人の女に愛されて幸せだったかもしれない。二人の女も、幸せだったかもしれない。
 しかし、私は全く幸せではない。葬式の準備が進む。遺産なんて欲しくもない。大人気ない大人に全部くれてやる。
 愛人のわび住まいに、今更金が入っても仕方がないもの。
 色白い。もう随分前から調子が悪いから、外にちっとも出ていないのだ。
 かさかさに乾いた唇が、動いた。
 醜いと思いながら、私はそれを眺めている。この醜悪な死に様を眺めるのが、不幸な私の仕事なのだ。
「・・・」
 死に掛けの声が呼んだのは、誰の名前でもなかった。
 結局この男は、誰も愛してはいなかったのではないか。或いは夢見がちの少女がするように、恋に恋していたのではないか。
 最後の最後に気にかけるのは、古びた橋のことなのだから。
 だらしがない男は、私に頼んだ。自分が頼まれたことなど、ちっともやらなかったくせに。私たち一家には、もう関わらないでっていったのに。
『はしにいってくれ。まもってくれ』
 そのように、私は読み取った。きっとそういった。数日前まだ少し元気だった頃に話したのも、橋のことばかりだったから。
 だらしのない男が、二人の女とであった橋。その恋の犠牲者に、よくそんな口が聞けたわね。
 今すぐ殺してやりたい。この男が元気な頃ならそう思ったけれど、死にかけでは軽蔑しか浮かばなかった。
 よっぽど橋が好き。その橋に惚れる男に惚れる女がいたのだ。この男は、初めから誰かを娶るつもりなどなかった。彼の本妻ですら、愛人。
 初めから心は橋にあって、女は女の勘でそんな事とっくに知っていた。互いに愛人でしかないとしっているから、本妻と私の母はさらりとした水のような関係だったに違いない。
 二人の女は愛人で、男の恋を守るためにいた。橋での出会いは男の理想で、恋の始まる橋が彼の求めるものだった。
 橋姫であり続けた二人は舞台を下りた。その任を私に継げというのだ。
 守る必要も消えるのに、今度は私にあの橋を守れというのだ。
 何て不幸なんだろう。
 私は、あの橋の近くの愛人のわび住いに住み続けるのに。
 そうして知らず知らずに、このくだらない遺言を守らされるのだ。


五、(1223語)

 行けばいい。何も考えずにまっすぐ行けばいい。余計なことを考えれば、足が重くなる。
 しかし足は不思議と茶屋に向いて、飲みたくもない茶を頼み、食いたくもない団子を頼んでいた。
 気恥ずかしいのか、恐ろしいのか。嘗ての友と、嘗ての想い人。あの男は、時間通りにはくるまい。いるとしたら、あの美しかった少女が、自分と同じ年頃の一人の女になってそこにいるだけであろうに。
 なぜか不思議と足が重い。
「あの・・・佐伯、佐伯 義介よしすけ様でしょうか?」
 上品な所作の娘であった。声も柔らかく美しい。
 年の頃は、この橋に通っていた頃の俺。心当たりはなかった。嘗ての想い人の年の離れた妹は、このような年頃であるかもしれない。或いはあの男の縁者。
 しかしその面差しをみたとき、違うと確信した。ただの勘だが、それは信ずるに足るものであった。
 返事がないので困惑し、娘は恐る恐る俺の肩に手を触れた。その袖の香に覚えがあった。
 恐らくは。
「佐伯様、ではありません? 人違いでしたか?」
「いや、佐伯だ。佐伯 義介。俺に間違いない」
 娘はあからさまにホッとした。その瑞々しい若さに愁いが、色気を添えている。
 そう、恐らくは。
「瀧崎様のことです」
「はは、またか。あの男が待ち合わせに来ぬのはいつものことだな」
「いえ、そうではないのです」
 困っている。困っているぞ。話を聞け。聞いてやれ。
「全く、来ぬ者を待っても仕方がない」
「佐伯様、お聞きください」
 通行人が何事かと思って振り返る。金を払った。娘を振り切って、俺は歩き出した。
 橋にはいかない。初めから乗り気ではないのだ。あの気ままな男は約束など、守らないに決まっている。
 あの男も待たされるという事を知ればいい。そうすれば少しは己の行動を省みて反省するだろう。
「佐伯様! 瀧崎様は、」
 娘が悲痛な面持ちで叫ぶ。
 若い顔に浮かぶ、愁い。
 袖から漂う、線香の香り。
 あの男は、橋で待っている。
 珍しく俺に待たされている。
 橋に来たのだ。そうして、俺を呼びにきたのだ。しかし俺はいかないぞ。初めから、大嫌いだ。俺の想い人を図らずも掠め取っていった事が、一等気にいらん。
 そうしておいてまたあの声色で、すまないねというのだろう。
 それで許してしまって腹の立たない俺が、俺は気に入らんのだ。
 幼い頃より病弱で、医者に余命半年もないといわれていたから俺は同情して遊んでやったのだ。それがどうだ。ずっと半年半年といい続けながら、何年も生きて。
 それが、今になって。
 今更、死んだはずがない。
 俺を呼び出した文はあの男に良く似た手で記されていた。とても良く似たているが、線の細い女の手であった。待っていたのは、線香の香の間にあの男の家の香を匂わせる娘であった。
 決まっている、あの男は今でもまんじりともせずに俺を待っているのだ。大人になって、すっかりと元気になって俺に待ちぼうけを食らわされているのだ。
 俺は、けして橋には行かぬ。
 娘など、俺を待っておらぬ。
 俺を待つのは、あの忌々しい男だ。あいつただ一人だ。


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