余り物と残り香の


 一時間に一本しかない二両編成の電車がホームを去った。私はその小さな背中が消えていることを願ったが、乗客の群れが過ぎた後も彼女はポツリとそこに立っていた。しばらくその背を見ている間に、暴力的な冬の風は布のわずかな隙間をぬって切り込んできた。
 目を離すと、白い息とともに流されていってしまうのではないかという儚い立ち姿。澄み切った空の色は目に痛く、私は少しうつむいて駅の待合室に向かった。
 ちらりとホームを見る。私の視線を感じたのだろうか、それとももう諦めて帰ろうと思ったのだろうか、踵を返した彼女と目が合った。
 夏場は開け放たれている扉も、今は締め切ってある。時代を感じる古びた駅舎の屋根は、元々は緑で壁は白い。子供の頃はまだ僅かにその名残があった。できた当時は山岳の別荘地にあるようなアルプスをイメージしたメルヘンチックな建物だったのだろう。冬に葉が落ちて木がむき出しになるように、今やペンキは剥げ落ちていた。
 アルミの引き戸は冷たい。
 それはちょうど駅舎へと引き返してきた彼女と、同じタイミングだった。待合室にいた人たちは、ホームで一度見ているにもかかわらず、金髪の女性を見てぎょっとしたようだった。
 白い肌は、朱がさしている。青とも緑ともつかない目は、駅の待合室をぐるりと見回してから私にたどり着いた。氷のような冷たい目は私を睨んだが、すぐに何事もないような顔をして小さくお辞儀をした。
「うちに、よっていくかい?」
「ええ、そうね」
 私の家はすぐそこにあった。彼女の家は少し遠い。電車は一時間に一本しかないし、彼女はそもそもその電車に乗るつもりがないのだ。
 家に向かう緩やかな坂道、彼女は誰かの家の垣根で、鮮やかに咲いていた山茶花を手折った。それが山茶花なのか色の柔らかい椿なのかは、私にはわからなかったが、彼女は山茶花だといった。
 あの、男はそう教えてくれたといった。
 手が悴んでいて、鍵を開けるのに少し手間取った。
 住人が一人いない家は、少々広い。玄関に残された女物の靴を、彼女は忌々しそうに見た。私はその靴の持ち主に関しては、諦めまじりで眺めていた。
 奔放なところに惚れた。しかしその靴の持ち主は、私が無難だから選んだ。こうなることは、わかりきっていたのだ。
 雲のように捕らえどころのない性格で、近づいても霧の中で迷ってしまうだけだ。
 珈琲を入れようとしたが、彼女は紅茶を所望した。
 無風の室内で、湯気はたゆたって空気に溶けた。
「ミルクは?」
「いらない、砂糖もいらない。この花、どうにかして」
 どうにか、とは。
 迷った挙句、空いた小瓶に水を入れて山茶花を挿した。小さな、ジャムの瓶だ。桜の花びらを煮詰めた上品なもので、紅茶に溶かして飲むと春の匂いがしたものだ。
 無論、私の趣味ではない。それを好く女性のいなくなった今では、空き瓶しか手元にない。
「いっそ、私たちが……」
「それができないの、あなたが一番わかっているでしょう?」
 そう、そうだ。だから、こうして何のためらいもなく会い、同じ部屋にいることができるのだ。
 私は、自分の配偶者を、諦めを持って見ていた。
 しかし、彼女は違う。新たな恋に生きるつもりはないのだ。家のここそこに残る、忌々しい女の気配をみては、眉根を寄せる。
 彼女が思う男もまた雲のように捕らえどころがない。それなのに、彼女はその雲を雨にして地に落とし、霧を集めて瓶に詰めてしまおうとしているのだ。
「恋、とは」
「はい?」
「春、のように心が躍るものだと思っていたのです」
 彼女に流れるのがどの国の血であるのか、私は知らない。
 紡がれる言葉はほんの少しだけ拙く、それが詩のように言葉ひとつひとつに重みを持たせていた。
「帰ります」
 紅茶はまだ、半分以上残っていた。
「そうか」
 帰る家がないことは知っていたが、私は止めなかった。
 すべて嘘だったわけではないのだ。私も、彼女も、捕らえられない二人の恋人も、待ちわびた春の訪れのように、心を躍らせた時があった。移ろいを止められなかった、それだけの話。
 彼女は、山茶花を一瞥した。雲のようにたゆたっていってしまった男との、思い出。
 ああ、あきらめたのだな。と私は思った。
 玄関の扉は、女性の手には少し重い。私はいつも妻の先に立って、扉を開けてやっていた。そのことを思い出した。彼女は、そんな風にしてもらったことはあったのだろうか。
 扉を開けたら、彼女は二度とこの場所に来ることはない。
「さようなら。お互いに」
 彼女はそこで言葉を切って、何かを考えるようなそぶりを見せた。
「なんでもないです」
 ふふふ、と疲れたように笑ったきり彼女は黙ってしまった。
 扉の向こうに消えた金髪が、鮮明に残っている。
 不意に胸が痛くなり、私は外に飛び出した。
 彼女の姿はどこにもない。探して追いかけるだけの瞬発力と情熱を、私は持っていなかった。
 それが憎らしくもあったし、己が十分に大人であったことに安堵もした。
 春のように軽やかでも暖かでも、やわらかくもないけれど、確かにこれは恋だったのだ。
 部屋では彼女の残した山茶花が、淋しげに咲いていた。

Page Top