炎都の記憶

第1話 夜明けの街

 夜の闇が群青に変わり、星は空の青色に溶けてゆく。光を失った月が西の空に白く残っている。
 歩墻の上を巡回していた若い兵士は、朝焼けで空の際が徐々に赤く滲んでゆくのをみた。
 太陽が顔を出せば、長く辛い夜回りの仕事も終わる。見咎められないようにそっとあくびを噛み殺し、眩しさから目をそらすように街に視線を下ろした。
 炎都は砂漠の只中にある都だ。王宮を中心に幾重にもなる壁と周囲に広がる農村、それより外は地平線まで続く砂漠だ。一見不毛な国に思えるが、南方の大国と北方諸国の豊かな資源をつなぐ交易都市として栄えている。
 市街地の正面玄関に当たる大門から続く大通りはバザールで、特に人の行き来が盛んだ。
 夜明け前にも関わらず活気づいており、通りは絨毯のように人の頭が敷き詰められている。太陽の光が全てのものの表面を炙って行く前に、商いを終わらせて家に引っ込むためだ。
 その雑踏を駆ける少年が一人。
 慣れたもので、人ごみを抜けるのに一度も立ち止まることはない。
 通行人に蹴飛ばされてしまいそうなほど小柄だが、体格の利を生かして器用にするすると大人たちの間を抜けてゆく。途中、頭に籠を乗せた女性にぶつかった。女性は眉をひそめて振り向いたが、彼女を見返す屈託のない笑顔をみて怒りを収めた。
「気ぃつけてね」
「ごめんなさい」
 少年が、籠から転がり落ちたトマトを懐に入れたことには、気づかなかったようだ。見咎められない場所に来てからトマトをかじり、彼は肉屋に向かった。
「おう、ライルいいもん食べてるな」
 肉屋の主人は馴染みの様子で少年に声をかけた。
「もらったんだ。小父さんもなんかちょうだい。食べ盛りだよ、俺」
「わかったわかった。いつまでたってもちっこいお前さんのために、ちっとははおまけしといてやろう。女将になんか作ってもらいな」
「ありがと! 品はいつも通り。今日は支払いがあるから、小父さん直接来て欲しいって」
「ああ、わかった。鶏は絞めたばっかで固いけどいいのかい」
「聞いとくよ。ダメって言ったら昼にまたくる」
 肉屋での要件を済ますと、ライルはまた通りに飛び出した。あとは酒を手配し、ナスと玉ねぎ、オクラにひよこ豆を買って帰らなければいけない。
 頭の中で寄る店の位置と荷物の量をざっと洗いだし、回る順番を決める。
 タマネギを最初に買うのが早く済むけれど、持って歩き回るには重すぎるから最後にしよう。
 一軒目、二軒目と回るうちに、歩く速度は次第に周囲の大人と同じくらいになり、タマネギを買う頃にはすっかり歩みも鈍くなっていた。足元が見えなくなるほどの荷物を抱えながら、他の通行人を避けて道の端を歩く。
 買い物をしている間に太陽は城壁の向こうから顔をのぞかせており、首筋をチリチリと焦がす。両手がふさがっているので汗は伝うがまま背中に流れ、ライルは不快感を振り払うように首を左右に振った。
 我慢できずに、ライルは目についた角を曲がって人混みを逃れた。荷物を降ろして汗をぬぐい、額に張り付いた前髪をかきあげ、息をつく。
 一息ついてから周囲を見回し、ライルは己の迂闊さに舌打ちをしたくなった。
 この通りはまずい。日雇いの用心棒や客引きの類、昼過ぎから起き出して行動するような夜の住人が住む貸し部屋の類が集まっている。道を歩いただけで盗みに遭うわけではないけれど、気が短くて荒っぽい人間が多いのだ。
 普段なら人相の悪い男や、婀娜っぽい声で喋りかけてくる女性の一人や二人歩いているものだが、誰もいない。仕事を終えてようやく眠りについた所だろうか、静かなこの時間帯なら通り抜けても平気かもしれない。日陰になっていて涼しいし、本当はここを通り抜けた方が近いんだ。
 冒険心から、ライルは普段は避けて通る道をゆくことにした。
 既に腕がだるくなってきてたのだけど、気合を入れて荷物を持ち直す。手元ばかり気にしていたライルは、いつのまにか立ち塞がっていた男に、気づかなかった。
 すんでの所で衝突を躱す。ぐらついた玉ねぎの袋を追いかけて、ライルは大げさによろめいた。
「ごめんなさい!」
 相手を確認するより先に頭を下げた。そのまま相手の脇をすり抜けて、立ち去ろうとしたのに腕で道を塞がれた。
 身が竦んだけれど、この街では怯えた様子を見せたら付け込まれる。
「顔を見せろ」
 その人物は、存外穏やかな声で語りかけてきた。麻袋をぎゅっと握りしめ、恐る恐る顔を上げる。
 背の高い、男が立っていた。
 弱いところは見せるまいと身構えていても、異様な風体の男に見つめられると気持ちがくじけた。日が強い国で肌を覆うような服は珍しくもないが、目の前の男が体に巻いているのは帯状に裂けた黒い布で、一部の隙もなく全身に巻きつけていた。片方だけ見えている瞳の色も、僅かに見える肌も異国生まれのそれだ。
 だが流れ者にありがちな摺れた雰囲気はなく、身につけた布は清潔だった。腰に佩いた二本の剣のうち一振りには、鞘から柄に至るまで一面に美しい細工が施されている。どんな要件であれ、物盗りではない。ひとまずそのことに安堵した。
「お前、名は?」
「ライル」
 男の声に害意が感じられなかったので、端的に返答した。答えながらも、逃れる隙はずっと窺っていた。彼が武器を持っていなければ、今すぐ大声をあげて助けを求めるのに。
 名を確かめるように何度も口の中で転がし、男はライルをじっと見つめた。居心地が悪く顔を背けるが、男の視線から逃れられないように思えた。誰でもいい。通りがかって彼の気をそらしてくれないだろうか。
「ライル、お前は人を殺した」
「は?」
 声がひっくり返った。
 ライルはすれ違いざまに野菜をくすねることはあっても、人様の財布には手を出さないし、揉め事からは走って逃げる。喧嘩だって今まで一度もしたことがないのだ。人を傷つけたことはない。殺したことなんて、もちろんない。
 きっと、彼は誤解している。そうでなければ、頭がおかしいんだ。
 確信に満ちた言葉は、予言じみていた。まるで今見て来たように言う。それが恐ろしかった。
「人違いです」
 恐怖を振り払うようにきっぱりと言った。一歩、後ろに下がる。
「お前は人を殺した。今に、賞金がかけられる」
「俺は、人を殺したことなんてないし、関係ないよ!」
 逃げようとしているのがバレないように、慎重にもう一歩。
「死にたくなければ、来い」
 男がライルの腕を掴んだ。両手で抱えていた荷物が足元に散らばった。麻袋が足の上に落ち、玉ねぎが緩やかな道の傾斜を転がっていったが、男は目もくれない。腕を掴む手は鋼のように硬く、有無を言わさぬ力で引き寄せられた。
 勢い余ってぶつかった男の体からは、洗いざらしの布の匂いしかしない。
 男に体は存在せず厳重に布で覆われた中身は空っぽ、そんな想像が頭をかすめて背筋が凍る。ライルの方へ緩やかに流れた布が、黒い魔物が手を伸ばしてくる様子に見えた。
「お前は、死ぬ」
 男の声は些かの感情の揺らぎもなく、いっそ優しげですらあった。
 低く囁かれた言葉は耳朶を打ち、するりと頭の中に入り込んでライルを縛る。黒い布の奥で、誰かが死ぬ光景がチラつくような気さえした。
 赤い血を流し、倒れる。小柄な少年の体。浅黒い肌。その顔は……。
「放せ!」
 男の体に足をかけ、渾身の力で引っ張った。腕の骨が軋み、男はみしりという音に怯むように手を離した。
 ライルは背中から地面に落ち、体に触れる全てを拒否するように手足をばたつかせながら起き上がる。手についた玉ねぎを掴んで確認もせずに後ろに投げた。
(これが石か、粉唐辛子の入った壺だったらよかったのに!)
 命中した音を背中で聞いて、無我夢中で走りだす。すぐそこにある大通りが、なんでこんなに遠く思えるんだ。もがくように手足をバタつかせながら、大通りに飛びだした。
 途端に人の波に流された。右からくる人にぶつかってよろめいたところに、もう一人。何人かを巻き込んで、転ぶ。ライルを中心に人の流れが崩れ、怒声混じりのどよめきが上がった。
 殴りかかりたいのか助け起こしたいのかわからない誰かの手に立たされる。相手にお礼をいうのも忘れ、目を皿にして群衆の中に黒衣の男が見えないかと怯えた。
 今にもあの細い道から黒服の男が飛び出してくるかもしれない。鞘を払いライルに斬りかかって来るかもしれない。一刻も早くここから離れたい。
 まだ混乱の治らない通りからそっと逃げ出した。今度は転んでいたずらに騒ぎを起こしたりしないように、慎重に。遠回りでも、人の多い道を選んだ。
 視界に黒い色が写るたびにどきりとしたが、幸いそれらは大抵日よけの布であの男が追ってくる様子はなかった。
 道を歩くうちに平静を取り戻し、さっきの出来事を思い返す。袖をめくると男に掴まれた場所には、くっきりと痣が残っていた。
 恐ろしかった。
 腕を掴む力の強さや彼の告げる不吉な言葉以上に、あの男自身が恐ろしかった。
 黒衣の男より体格がいい男は沢山いる。人相が悪い男も、人を殺したことがある男も知っているし、もっとはっきりとライルに害意を向けて来た人間だっていた。今日感じた恐ろしさは、そういうのとは違う。もっと漠然としていて、体の芯に刻まれているような抗いがたさがあった。
 怖いけれど、なぜ怖いのかわからない。そこが怖い。
 たぶん、あの男が他のみんなと同じ服を着ていたとしても、街ですれ違ったら振り返ってしまう。そして、彼が一言も発せずとも、関わり合いにならないように足早にそこから逃げ出しただろう。
 きっと、狂人か人さらいだったんだ。
 そう思ってみれば、あの男の異様さは狂人のそれだ。妙に確信に満ちた態度で、意味不明のことを口走るのも似ている。
 人さらいなら高価な剣を持っていたのもわかる。人さらいは身なりが良いらしい。隠れて人を買うするようなのは、お金持ちに決まっている。だから悪事を働く連中の中でも、人さらいは高価なものを身につけている。
 汚い仕事をしているうちに心を壊してしまった狂人の人さらい。それが一番しっくりきた。
 一人で脇道を歩くライルを、孤児と間違えたに違いない。
 この街に住む半数の子供と同じく、ライルには親がいない。しかし幸いライルは、親切な宿屋の女将に拾われて、それからずっとそこで宿屋を手伝いながら暮らしている。血は繋がっていなくても、女将さんはライルにとっての親だし、酒場に通ってくる常連客も口は悪いけれど、皆ライルに優しくしてくれる。いなくなったら誰かが心配してくれるし、探してくれる。
 みんなに話して、笑い話にしてしまおう。
 角を曲がれば店が見える。駆け込もうとしたライルは、ドアの横にあるものに気づいて足を止めた。
 行儀正しく積み上げられた玉ねぎといくつかの麻袋。全部ライルが買ったはずのものだ。買った後、黒衣の男に会ったあの道で、丸ごと落として来た荷物。玉ねぎには地面に落ち投げられた時の傷がある。
 なぜここに。
 息が止まりそうになった。
 あの黒衣の男がここに来た。ライルが逃げ回って遠回りをしている間に、みんなさらわれてしまっていたらどうしよう。
 最悪の想像が脳裏をかすめ、ライルは門から中庭に飛び込んだ。
「女将さん」
 店は静まり帰っている。
 お客さんがいない時間だって女将さんは朝から晩まで働いて、せわしなく動き回っている。店はいつもどこかで人の生活の気配が感じられるはずだ。
 森閑とした中庭に立ち尽くしているのは、知らない人の家に入り込んでしまったような所在無さがあった。
「女将さん!!」
 悲鳴に近い声で、ライルは叫んだ。路地裏で振り払ってきたはずの不穏な影が、戸口の隙間から忍び込んでくるような気がした。静けさに身を任せていたらその影に飲まれそうで、ライルは声を張り上げずにはいられなかったのだ。
「はあい。なんだい大きな声で」
 のんびりとした声が帰ってきた。女将さんと厨房係のマニが地下から水瓶を持って上がってくる所だった。マニも元孤児だが、十年ほど先輩で店を任されるくらい女将さんに信頼されている。女将さんが母親ならマニは兄だろうか。
 二人の姿が見えた途端に、雑多な音も戻ってきた。水瓶を下ろした時の、ゴトリという音。重いものを下ろした時に吐いた、大きな息。皮のサンダルが地面を踏みしめる音。布ずれの音。屋上で誰かが絨毯を叩く音。
 圧迫するような静寂はどこに行ったんだろう。きっと雑談しているとき不意に訪れる沈黙のようなものだ。間が悪かったんだ。怖い出来事に出会って神経が過敏になっていたから、それを不吉の兆しのように感じてしまったんだ。普段なら、今日は静かでいいなで済ませてしまうようなことじゃないか。
 水を汲み足しに地下の貯水槽にいってきたところだった二人は、顔面蒼白になったライルをみて不思議そうに顔を見合わせた。
「やっぱり買い出しはライル一人じゃ重かったかい」
「俺が代わりに行けばよかったですね」
 二人は命が脅かされていたかもしれないことなんて知りもしないで、ライルを案じている。
 普段通りの二人が、あまりにも呑気で笑ってしまった。笑ったつもりだったけれど、涙が溢れていた。
「どうしたんだい」
 女将さんが前掛けでライルの顔を拭う。ゴシゴシと強い力で擦られると顔が痛かったけれど、不思議と嫌な気持ちはしなかった。前掛けに染み付いた煮炊きの煙と、スパイスと脂の入り混じった匂いはライルを安堵させた。笑顔のかわりに溢れた涙はいつしか嗚咽に変わり、ライルは女将さんに抱きついた。
 一度泣き出してしまうとなかなか止まらず、何が起こったのか話せるようになるにはしばらく時間がかかった。

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